嘉納治五郎物語⑦
欧州視察からの帰国、結婚、単身赴任。
波乱に満ちた1年。

嘉納治五郎師範夫妻結婚当時_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 夫妻 結婚(明治24年)当時
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欧州視察から帰国した年、
人生の大きな分岐点となった
二つの出来事。

1年4カ月にもおよぶ
長い欧州視察から
「治五郎」が帰国したのは、
1891年(明治24年)1月のこと。

長旅の疲れを癒す意味もあり、
帰国後は、
姉の勝子の嫁ぎ先である
東京麻布の柳邸に
しばらく逗留することに。

ずっと働き詰めの
「治五郎」にとって、
久しぶりのまとまった休息でした。

休んでいる間に、勝海舟の紹介で
漢学者の竹添進一郎と会う機会があり
、それが縁で、竹添の次女の
須磨子との婚儀がまとまります。

出会って数カ月の決断でした。

「治五郎」がそんな
人生の大きな節目を迎えている中、
彼の知らないところで、もうひとつの
彼の人生を左右する動きが。

学習院と文部省との間で、
帰国後の「治五郎」の処遇を巡って、
何度か話し合いが持たれており、
その結果、
“熊本の第五高等中学校
(現熊本大学)校長就任”と
“文部省参事官就任”の2つの要請が
「治五郎」に示されました。

熊本からの要請は
校長在職中ということで断り、
文部省参事官の要請を承諾。

ところが、第五高等中学校校長が
急逝したことで再要請があり、
文部省参事官兼務で
校長に就任することを
決断しました。

それまで教授として籍を置いていた
学習院の教壇を去ることに、
一抹の寂しさを感じたといいます。

同年8月に、
熊本での校長就任を前に、
姉の嫁ぎ先の柳邸にて
挙式を上げました。

新郎である「治五郎」が32歳、
華族女学校卒業前の
新婦の須磨子は18歳。

本当なら、これから
新婚生活が始まるところですが、
約1カ月あまり後の9月には、
新妻を東京に残したまま、
熊本の第五高等中学校に
任期3年の校長として、
単身で赴任しました。

「治五郎」が洋行帰りの
知識人であったことに加え、
“講道館柔道”の創始者
としての名声も熊本に届いており、
全校生徒に羨望の眼差しで
迎え入れられたといいます。

1891年(明治24年)は、
1月に帰国して、8月に結婚、
9月には熊本に単身赴任。

1年も経たない間に、
人生の大きな岐路を
2つも経験するという、
とても忙しい年となりました。

 

 

嘉納治五郎師範写真中央_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 写真中央 五高集合写真 左の横を向いているのがハーン
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赴任地の熊本で、
「治五郎」の教育に対する思いは、
より深く育ちました。

熊本に校長として赴任して、
まず行ったのが柔道場づくりです。

ただ、それに充てる予算がないため、
校長官舎の物置に床をつくって
畳を入れ、自宅の道場は完成。

学校の生徒控所のタタキの上に
40畳の畳を敷いて
学校の道場もできたこともあり、
自宅と学校の両方で
“柔道”を教え始めました。

幸いにも、弟子の柔道家を
連れてきていたので、
彼を助手に「治五郎」自らが
指導の毎日。

そして、学内にとどまらず、
九州を代表する
柔術諸流派の協力を仰いで、
“柔道”の普及による
“九州柔道”の基礎を築きました。

また、自身が指導する
“柔道”だけでなく、
剣道、弓道、野球などのスポーツを
学内生活に取り入れるなど、
その時代としては珍しい
スポーツ振興を導入したのも、
新しい教育の一環といえます。

続いて、人事面でも
独自の手腕を発揮します。

アメリカ人教師で、その時すでに
作家としても名を馳せていた
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
を教授として、前任地の
島根県松江から招聘したのも、
教授陣の充実を図る
取り組みのひとつです。

ハーンは、
日本文化に深く傾倒しており、
“柔術”を創設した
「治五郎」への興味と
日常的に英会話を使いこなす
親近感から、「治五郎」を
深く敬愛していました。

その強い思いから、
後に「東の国から」という
著書の中の“柔術”で
「治五郎」と交わした言葉が登場。

この本を通じて
欧米へと“柔道”が広まり、
やがて世界の舞台へと
送り出されることになります。

赴任地の熊本で、まだまだ
やろうとしていたことが
数多くあったにも関わらず、
3年の任期を半分過ぎたあたりで、
第五高等中学校長の任を解かれ、
文部省参事官兼図書課長として
呼び戻されることになりました。

「治五郎」はその要請を
快く思わず、また地元熊本では
留任運動が巻き起こるほど
愛されていました。

しかし、辞令は覆ることなく、
1年半の勤務は終わりを告げます。

熊本を後にすることが決まり、
その送別会の挨拶で、
「治五郎」は
“余は実に忍びず、余は実に苦しむ…
九州なるかな、九州なるかな、
余は九州を愛せり”と。

わずかな期間であったが
「治五郎」が成し遂げたことは、
とても一人の人間が成し得ることが
できないほどの教育改革でした。

その経験は、
その後の教育現場に生かされ、
さらに磨き抜かれたものに
なって行きます。

※参考文献
全建ジャーナル2019.8月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第8話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑥
最愛の父の死と、大きな転換期となった欧州視察。

嘉納治五郎師範講道館創立の頃_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 講道館創立の頃
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父、作之助の死に呆然自失。

「治五郎」が学習院の
幹事兼教授に抜擢された
1885年(明治18年)9月、
父の治郎作が享年74歳で他界。

亡くなる前の年に、
海軍権大書記官に
任命されたばかりでした。

突然、心の支えを失った
「治五郎」の喪失感は大きく、
しばらくは暗澹(あんたん)たる
日々が続いたといいます。

父が亡くなって数年が経った
1888年(明治21年)のこと、
学習院第4代院長に
三浦梧楼が就任しました。

「治五郎」が唱える
“華族、士族、平民の区別のない
平等教育の実施”
という意見に対し、
新しい院長は
“学習院は華族の学校なので、
華族優先の差別教育”
を主張したため、真っ向から対立。

どうしても意見を変えない
「治五郎」を疎ましく思う
新院長から、宮内省御用掛として
欧州への海外視察を命じられ、
苦々しくもこの提案を
受けることになったのです。

併せて、教頭職は解かれること
となりました。

そんなこともあり、
教育に対する情熱に
やや陰りを感じた「治五郎」は、
欧州視察の出航の前に、
師と仰ぐ枢密顧問官の
勝海舟の私邸を訪ねました。

欧州での見聞をもとに
学問に没頭しようとする考えを
告げたところ、
勝は笑みをたたえながら、
それを一蹴。

“それはいけない。
社会で事を成しつつ、
学問を成すべきだ”と諭され、
その忠言を深く受け止めました。

この短い言葉に込められた、
“高等教育者として、
また講道館師範として、
現場での研鑽を積みながら、
東西の学問に打ち込め”という
勝のエールに、
決意を固めた「治五郎」でした。

翌1889年(明治22年)9月、
最初の欧州視察がスタートしました。

1年4カ月にもおよぶ長期視察では、
フランス、ドイツ、オランダ、
オーストリア、イギリスなどを訪問。

とくにその国々の
教育制度の視察を中心に、
国民性や文化の見聞を広げました。

その様子は彼の“英文日記”に
つぶさに書き記されています。

この欧州視察での
「治五郎」の感想は、
“欧州の人に会うと、
知識ではかなわないと
感じることもあるが、
能力という点で
引けを取ることはなかった。

著名な教育者に面会しても、
日本人より優れているとは
必ずしも思わない。

もし劣っているとすれば、
日本は新しい教育になってからの
日が浅く、制度や人材などが
整っていないに過ぎない”
というもの。

そして、改めて教育の大切さを
自覚し直したといいます。

余談となりますが、
日本への帰路の船上で、
屈強な巨漢のロシア人士官を
“柔道”で投げ飛ばしたことが
新聞記事となり、
全国に彼の名や“柔道”を
広めることになりました。

 

柔道乱取の様子_中央黒帯永岡十段_菊正宗ネットショップブログ
柔道乱取の様子_中央黒帯永岡十段
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「治五郎」の“柔道”が一躍有名になった、
警視庁武術大会での勝利。

さて、「治五郎」が興した
“柔道”はというと、
1885年(明治18年)5月まで、
時は遡ります。

警視庁総監の三島通庸が催した
武術大会で、“講道館柔道”が
“警視庁柔術”を制するという
前代未聞の出来事が起こり、
“講道館柔道”の名が一躍、
世間に知られることとなります。

武術大会では、
“講道館”と“警視庁”が
それぞれ代表を出して、
行われたのは2試合。

最初の試合、
相手は巨漢で一門を代表する
四天王のひとりを繰り出します。

“学生柔道ごときに何ができる”
と舐めてかかった猛者に
臆することなく、
無名の白帯が
絞め技で失神させて完勝。

続く試合も
約30cmの身長差がある相手が、
力任せに挑んでくる力を
応用して技を掛け、
こちらも完勝で試合を決めました。

まさに“柔よく剛を制す”試合運びが
世間を沸かせたのは、
言うまでもないことです。

翌年も同じように
警視庁武術大会が開かれ、
“講道館柔道”と“警視庁柔術”が再戦。

最初の試合は
多彩な技で相手を翻弄した
“講道館柔道”の勝ち。

続く試合は、実力伯仲の
1時間にもおよぶ接戦が続きました。

関節技を極めたものの、
面子を重んじた相手が
参ったといわないため、
審判判定により
引き分けとなりました。

とはいえ、試合運びでは
“講道館柔道”の完全勝利で、
名実ともに、
“講道館柔道”の名前を
天下に轟かせる
キッカケとなりました。

何より、試合の勝ち負けだけに
こだわる柔術から、
試合後にお互いの健闘を讃え合う
“柔道”に大きく傾く
瞬間だったのかも知れません。

とくにこの最後の試合は、
後々までの語り草となりました。

最初の大会が行われたのは、
父の治郎作が亡くなる
約4カ月前のこと。

父として、
息子の「治五郎」がめざした
“柔道”が、世間に
大きく知れわたったことに喜び、
立派に成長した息子の姿を
微笑ましく思うとともに、
例えようのない幸福感を
感じ取ったに違いありません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.6月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第6話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.7月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第7話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑤
“柔道”が軌道に乗り、新たに教育者として一歩を踏み出す。

永昌寺_1882.2-1883.2_菊正宗ネットショップブログ
永昌寺_1882.2-1883.2
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“柔道”の概念も固まり、
門人が集まり始めました。

1879年(明治12年)、
「治五郎」は、
父の治郎作と交流のあった実業家の
渋沢栄一からの依頼により、
渋沢の飛鳥山別荘にて、来日中の
アメリカのグラント前大統領の
歓迎のための御前試合を
披露することになりました。

師の福田八之助ほか、
磯正智師範など大先輩らとともに
柔術の形を演じるという
貴重な体験で、
師範格に混じった唯一の大学生で、
英語に秀でていたこともあって、
ひと際目立つ存在であったことは
確かです。

翌1880年(明治13年)には、
東京大学の学園祭で開かれた、
“天神真楊流”の原点となる
“楊心流戸塚一門”の演武披露に
飛び入り参加。

小柄の「治五郎」が
“楊心流戸塚一門”の巨漢と
試合をして勝ち、
一躍、世間の話題に。

「治五郎」がめざしたのは、
それまでの柔術で認められていた、
喉を突いたり、武器を使う
危険な技を排除した、
精神的な規律を重んじる
理論的な武術で、
試行錯誤を繰り返しながら、
東京大学卒業の
1881年(明治14年)、
「治五郎」が22歳の年に
“柔道”は確立されました。

翌年の1882年(明治15年)、
東京上野の永昌寺に
“嘉納塾”
“講道館”
“弘文館(宏文館)”
という3つの教育事業拠点を開設。

“嘉納塾”は、
目先の利に捉われない
大きな視野を持った
将来を担う人材の育成、
“弘文館(宏文館)”は
留学生受け入れを兼ねた英語学校
という目的で開設されました。

そして“講道館”は、
ご存知のように今につながる
“柔道”の拠点です。

ここでは、“柔道”への理解を
深めてもらうため、
“練体法
(体育的に身体が凝り固まることなく
自在かつ敏捷(びんしょう)な
強さを習得)”、
“勝負法
(攻撃と防御を兼ね備えた
武術としての柔道)”、
“修心法
(智徳の修養と柔道の原理を
実生活に応用する研究と実行)”
の3つに分けて解き、
これらの技法を重ねて
会得することで、
“心・技・体”の備わった
人格形成につながるもの
と考えていました。

“講道館”は、この地から
幾度かの移転を繰り返し、
1958年(昭和33年)に
現在の東京文京区春日に移り、
現在に至っています。

ちなみに、10年後の
1893年(明治26年)まで、
約2600人の門人を抱えました。

しかし、いずれの入門料や学費を
一切徴収することはなく、
赤字経営を覚悟の上で、
「治五郎」がすべて自己負担。

学習院での給与や英書翻訳などの俸給
を運営補填に充てたといいます。

それほど、
人の教育の大切さを理解し、
実践するために、
つねに未来を見据えた活動へと
広くつなげて行きました。

 

嘉納治五郎師範草創期2列目左から4番目_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 草創期 2列目左から4番目
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「治五郎」の教育者としての第一歩。

柔術から“柔道”へと
着実に足場を固めていく
「治五郎」でしたが、
多彩な彼の才能は、教育現場でも
新しい道が開き始めます。

それは、まだ東京大学哲学選科
(現在の大学院)に在学していた
1882年(明治15年)、
卒業を間近に控えた彼に
学習院から教師の要請が
舞い込んできました。

政治学と理財学(経済学)を
英書で教えるクラスと
日本語で教えるクラスへの
教師要請です。

大学選科で学問を続けながら
勤務できることもあり、
嘱託を快く承諾。

いわゆる“華族の学校”である
学習院の教壇に立つのを
要請されたことは、
まだ若かった「治五郎」にとって、
とても誉れ高い出来事であった
という言葉が残されています。

その後、
1885年(明治18年)には、
学習院の幹事兼教授に抜擢。

これは、
華族会館が運営する私立学校から、
宮内省管轄の官立学校に転換した
ことも大きく影響しています。

そして
翌1886年(明治19年)には、
学習院の教頭に昇任。

“柔道”を広く啓蒙するかたわら、
教育者として一歩を踏み出した
26歳のことでした。

晩年、「治五郎」は、
講道館柔道師範としての
功績だけ語られるのを
決して快く思っていなかった
といいます。

というのも、学習院講師を皮切りに、
政治学や理財学(経済学)、哲学など
、さまざまな分野で教鞭を執り、
睡眠時間を惜しむように
英米仏の論文を読破し、
翻訳も手がけるなど、
「治五郎」のあふれる才能は、
多岐に発揮されました。

そういう意味で、“柔道”は、
「治五郎」の人生のひと欠片に
過ぎないのかも知れません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第4話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.5月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第5話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語④
「嘉納治五郎」の代名詞ともいえる、“柔道”誕生の瞬間。

嘉納治五郎師範稽古衣_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 稽古衣
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

ようやく柔術を学ぶ道場へ。
そこで培った反骨精神。

父に“柔術を習いたい”と
懇願したものの、
習う当てがあった訳ではありません。

しばらくはずっと、
柔術の師匠探しが続きました。

“整骨をする人は、
昔の柔術家の名残”
ということを耳にして以降、
街で“整骨”の看板を掲げたところを
見つけると、そこに飛び込んで、
柔術をやっているかどうかを
確認することが
いつの間にかいつもの習慣に。

しかし、その多くは取りつく島もなく
、ほとんどが門前払い。

ある日のこと、いつものように
闇雲に尋ねた整骨所で
運良く紹介されたのが、
福田八之助が師範を務める
“天神真楊流
(てんじんしんようりゅう)”
の柔術です。

藁にもすがる思いで、ここに入門して
学ぶことになりました。

ちょうど、1977年(明治10年)、
“東京帝国大学”文学部に
編入した頃です。

“天神真楊流”の柔術スタイルは、
平服で行う組手で、
絞め技、関節技が特徴の流派。

道場はお世辞にもキレイとは言い難く
、わずか10畳ほど道場のうち
3畳ほどが整骨の治療所
となっている有様でした。

しかし、ようやく
柔術の糸口が見つかったのですから、
「治五郎」は十分に満足して、
稽古に励みました。

先生の技で投げられ、
その技のやり方を尋ねても、
“さあ、おいでなさい”と、
またいきなり投げられる
ことの繰り返し。

「治五郎」が
理論的に理解しようとするのに対し、
先生は数をこなして
身体で会得するもの
という考え方なので、
受け入れてもらえるはずが
ありません。

福田先生は、幕府の講武所
(旗本や御家人子弟の武術訓練所)
で世話心得、
今でいう助教授という立場であった
筋金入りの幕府武道の指南役。

それなのに理論ではなく、
いわゆる“身体で覚える”
根性論を唱える先生に対して、
いつもの反骨心が芽生えた
「治五郎」。

“柔術を理論的、科学的に分析”
するという探究心が、
より一層高まり、いい意味で
先生を“反面教師”に位置づけたと、
後に語っています。

とはいえ、
柔術の技術はまだまだ未熟で、
連日の猛練習の中で
痩身は青アザだらけになり、
万金膏(湿布)を身体中に貼った
「治五郎」の姿を見て、
大学寄宿舎の友人たちは
“万金膏の嘉納”と冷やかしました。

その後、鎧を着用し、
投げ技にすぐれた飯久保恒年が
師範を務める
“起倒流(きとうりゅう)”に入門。

同じ柔術なのに、
流派でまったく異なることに驚き、
それをキッカケとして
柔術諸流派の比較研究へと、
興味はさらにより深い方向へと
向かって行きました。

 

嘉納治五郎師範起倒流免許皆伝書_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 起倒流 免許皆伝書
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

柔術から柔道へ。
その発端は、意外にもスペンサー哲学。

当時の柔術のほとんどが、
相手を負かすことにありました。

しかし、「治五郎」がめざしたのは、
相手の力に逆らわず、
それに従うように動きながら、
その力を利用して勝つことです。

さらには、技に勝つばかりでなく、
精神においても勝つことでした。

そのヒントとなったのは、
意外にも大学で学んでいた哲学です。

そのひとつの真理をもとに、
独自の理論を組み上げました。

当時、アメリカから来日して
東京大学で教鞭を執っていた
フェノロサが教えていた
“スペンサー哲学”に、
「治五郎」は深い感銘を受けました。

その中の、
“何かを成そうとするには、
必ず最善の方法があるはずで、
その最善の方法は
もっとも経済的であると同時に、
もっとも優美な方法である”
という考え方をお手本に、
それを柔術に照らし合わせて
熟考の日々。

そして、
“身体の動き、動作に
完全なる秩序を持たせて
調和させることで優美さが生まれ、
精神をも支配することが可能となる”
と解き、
“心身最有効使用術あるいは道”
を、呼びやすく言い換えた
“柔道”
が生まれました。

その根底には
“スペンサー哲学”の真理が流れ、
“心・技・体”の美しい調和は、
今なお、変わることなく
受け継がれています。

この後、勝てばいいという柔術から、
心・技・体”を備えて理論立てた
“柔道”へと
大きく変わって行きます。

日々の鍛錬により研鑽を重ね、
礼に始まり礼に終わる“柔道”は、
他のスポーツにも
大きな影響を与え、
日本のみならず、その精神論が
世界を席巻することになるのです。

※参考文献
全建ジャーナル2019.3月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第3話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第4話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語③
新都東京の新しい文化に触れて芽生えた旺盛な学習意欲。

嘉納治五郎師範11歳写真右_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 11歳 (写真右、写真左は兄)
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

新しい東京での生活がスタート。
名前も、「伸之助」から「治五郎」へ。

1871年(明治3年)、
明治政府に招聘されていた
父の元に身を寄せるように
新たにスタートした新都東京の生活。

廃藩置県直前で、街行く人は
刀を差して歩いているような江戸から
近代へと生まれ変わる、
ちょうど時代の節目を
迎えた時期でした。

新都東京にあふれている
文明開化の風を感じて
チョンマゲを切り落とし、
決意も新たに
幼名の「伸之助」から
「治五郎」へと改名。

しかし、
家族は以前と変わることなく、
“伸坊(しんぼう)”という
愛称で呼んでいたといいます。

末っ子だったこともあり、
家族の愛情を一身に注がれる
存在だったようです。

この頃、父の治郎作は、
勝海舟の要請を受けて
海軍省高級官僚に就いており、
日本橋蛎殻町に構えていた
父の邸宅に引っ越したのでした。

引っ越しして間もなく、
「治五郎」は、父の勧めもあって、
自宅からほど近い両国の
“成達書塾(せいたつしょじゅく)”
に入塾。

この塾を主催する
生方桂堂(うぶかたけいどう)から
“新時代に処するには、是非
洋学を勉強しなければならないが、
それには先ず以って
日本精神を固めて
おかなければならない”
との教えを受け、その手段として
書道を叩き込まれたといいます。

「治五郎」は、
この師の教えを忠実に守り、
晩年になっても時間があれば
習字に没頭しました。

また、師と仰ぐ
生方桂堂からの助言で、
高名な洋学者の
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)
が主催する
“三叉学舎(さんさがくしゃ)”
の門を叩き、書道と同時期に
英書を学び始めました。

どちらも実力が試される
高いレベルの学習私塾でしたが、
「治五郎」は困難であればあるほど、
目の前に立ちふさがる難題に
負けじと食らいついて行った
といいます。

そして、14歳になった
1873年(明治6年)、
親元を離れて芝烏森にあった
“育英義塾”に入って
寄宿生活を送りました。

ここではオランダ人が教頭、
ドイツ人が助教授で、
すべての学科を英語で教える
という徹底ぶり。

ここで英語、ドイツ語を学びました。

「治五郎」の成績は数学が群を抜き、
漢学、英学も得意分野で、
天文学を専攻しようと思った時期も
あったようです。

その後、1974年(明治7年)に、
東京帝国大学の前身である
“官立外国語学校”に入学し、
翌1975年(明治8年)に卒業。

そしてすぐに
“官立開成学校”に入学し、
1977年(明治10年)、
同校が“東京帝国大学”に改称
されたため、文学部に編入し、
政治学、理財学、哲学を専攻。

また、大学に通うかたわら、
夜間は“二松学舎”の塾生となって
漢学を学びました。

1881年(明治14年)に
“東京帝国大学”を卒業した後も、
同じ文学部の道義学、審美学の分野へと
進学。

その時、「治五郎」は22歳。

旺盛な学習意欲は尽きることなく、
世の中にある学問という学問を
すべて吸収するがごとく、貪るように
学問を求めて突き進みました。

 

 

嘉納治五郎師範20歳_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 20歳
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

「嘉納治五郎」が感じていた、
小さな身体と虚弱体質へのコンプレックス。

「治五郎」は、大学入学前の
“育英義塾”に通っていた頃、
もともと身体が小さく、
虚弱体質であったことで、
体力、腕力が備わった同窓の学生に、
なかなか勝てないことに
コンプレックスを感じていました。

そのことをずっと悔しく感じており、
自分のような非力な者でも、
体躯の備わった強い相手にでも勝てる
という柔術を学びたいと、
常々考えていたと後に語っています。

彼の身長は158cm足らずだった
という記録が残されていますが、
明治当時、男子の平均身長は
155cm程度だったことを見ると、
平均より少し高い身長
だったようです。

そんな思いを、
父の治郎作に相談したのですが、
父から返ってきたのは
“学業を怠るもの”としての
反対の意見でした。

というのも、治郎作は当時、
海軍権大書記官の政府高官の
職に就いており、「治五郎」にも、
大学卒業後に高級官僚になることに
期待していたからに他なりません。

しかし、
食い下がる「治五郎」の熱意に負け、
“必ずやり遂げるなら許す”
と折れました。

ここから、「嘉納治五郎」の
柔道の道がようやく始まります。

それまで、
さまざまな学問を究めてきた彼が、
どのように柔道に取り組んだのか。

次回から、
いよいよ柔道編に突入します。

※参考文献
全建ジャーナル2019.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第2話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.3月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第3話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓