至宝の純米大吟醸「オデュッセイア」が、より旨さを極めて長い眠りから覚醒。

未来へと夢をつなぐ、
究極の“味吟醸”を求めて。

古代ギリシャの
詩人ホメロスによる叙事詩
“イーリアス”と“オデュッセイア”
はトロイア戦争を中心とした
前後編ともいえる英雄叙事詩で、
両作品を通して、オデュッセウスが
故郷を離れて戦場におもむき、
トロイア戦後の漂流の果てに
故郷に戻る20年間の冒険談
が記されています。

そして2つの叙事詩の本編ともいえる
“オデュッセイア”の名前を冠する
菊正宗の純米大吟醸
「オデュッセイア」。

オデュッセウスの長く続いた
“旅”の20年になぞらえ、
まさに20年という
“時をつなぐ”逸品であることは、
前々回のコラムにて紹介しました。

今回は、そんな純米大吟醸
「オデュッセイア」が持っている
豊かで深いポテンシャル
についてひも解きます。

20年前、菊正宗の頂点に位置する
不動のハイエンドモデル
純米大吟醸「治郎右衞門」の一部が
氷温で貯蔵されました。

21世紀の幕開けとなった
西暦2001年11月のことです。

誰もが最先端に包まれた未来を
思い描いた21世紀。

日常の延長線上にある未来は
意外と普通でした。

それよりも、その5年前の
阪神淡路大震災の復興が進み、
傷も癒えはじめた頃で、
未来へと夢をつないで託す試み
ともいえるでしょう。

この未来へのかけ橋となる
プロジェクトは、
当時、流行りの香り高い
フレッシュ系の大吟醸ではなく、
辛口ブランドを信条とする
菊正宗の威信を賭けて、
究極の“味吟醸(吟醸香を抑えた、
吟醸酒の中でもとくに
“味”を追求したもの)”
を求め続けていたことの
集大成ともいえる取り組みです。

“味吟醸”の経験に長けた
丹波杜氏の名匠、故・籾井計三による
監修のもと、手造りによって
ハイエンドを冠するにふさわしい
究極の純米大吟醸「治郎右衞門」を
醸すことが最初の段階です。

そして、手造りによって各工程ごとに、
やさしく丁寧に醸し上げた
純米大吟醸「治郎右衞門」
が誕生します。

それを、
長期熟成するための準備を整え、
やがて開封される時まで、
静かな眠りへと就いたのが
2001年11月のことでした。

 

覚醒した“オデュッセイア”は、
一度限り、限定170本。

兵庫県三木市吉川町の契約栽培農家
「嘉納会」が管理する
広大な作付けエリアの中でも、
より高い品質が収穫される
特A地区産の“大粒山田錦”を
原材料として100%使用。

この極上の酒米を
低温長時間精米によって、
極力、熱を与えないように配慮しながら
4割にまで磨き上げます。

その後、限定吸水法という技術により
手洗い洗米と浸漬の工程を経て、
箱こうじ法によって製麹。

酒母は熱湯を詰めた木製の暖気樽と
氷を詰めた冷管を用いて、
よりきめ細かく温度管理を行います。

そして、じっくりと
低温長期醗酵した醪をやさしく搾り、
旨さと香りを瓶に封じ込めたのが、
究極の“味吟醸”
純米大吟醸「治郎右衞門」です。

このように手間ひまをかけた
“我が子”のような逸品が、
氷温下の元、
やがて開封される時を
待つかのように、
静かな眠りにつき、
20年という歳月が経ちました。

長い“時”という旅を終えた
究極の“味吟醸”純米大吟醸
「治郎右衞門」は、
新たに純米大吟醸
「オデュッセイア」という
名を与えられ、一度限りの
限定170本のみ出荷されます。

上品な熟成香を纏った、
しっかりとしたコクと旨みを極めた
“味吟醸”は、
ミシュラン三ツ星の
ナンバリングされた
幼鴨フィレ肉のロースト、
A5等級神戸牛のすきやき、
高級中華飯店の北京ダックなど、
超一流ディナーのテーブルに
並ぶのにふさわしい仕上がり
となっています。

最高級ワインをもしのぐ
豊かな深い味わいをご堪能ください。

 

純米大吟醸「オデュッセイア」は、
特別な日を祝う、
時を超越したタイムカプセル
ともいえます。

大切な日、大切な方と過ごす時間に
ふさわしい円熟した美味しさ、
ここに極まりました。

飲んだ瞬間、五感を刺激する特別なスパークリング日本酒「RIZING」。

菊正宗_スパークリング純米酒_RIZING_ライジング_720ml_タイトル

素材にこだわり、製法にこだわることで、洗練された酒が誕生します。

前回のコラムで紹介した
純米大吟醸「オデュッセイア」と
同じこの時期に、
菊正宗が販売を開始する
お酒がもうひとつあります。

超特撰スパークリング純米酒
「RIZING」。

フランス語で米を意味する
“RIZ”から命名された
発泡系の日本酒です。

米が本来持つまろやかな旨みに加えて
、果実のような香りと一緒に感じる
やわらかな甘みを持つのが
「RIZING」の大きな魅力です。

その特徴のひとつである“香り”。

青りんごやマスカットのような
若々しい香りが鼻腔をくすぐり、
口に含むと洋梨や綿アメのような
華やかな香りへと変わり、
そして、青りんごや白桃のような
アフターフレーバーに。

ひと口飲むごとに押し寄せる
この“香り”の波は、
かなりクセになります。

また、グラスに注いだ時に
“つつ〜っ”と立ち上る泡は、
さながら品のいい
高級シャンパンのように繊細で、
見た目の爽やかもさることながら、
切れ味の良い泡の刺激が口腔に広がり
、豊かな爽快感のある
口当たりとともに、
お米の旨みを感じる
滑らかな喉ごしを実感します。

“香り”と“味”のバランスがとれた、
満足のいく至福の逸品に
仕上がりました。

菊正宗_スパークリング純米酒_RIZING_ライジング_720ml_グラス

このスパークリング純米酒
「RIZING」を、
芳香を纏った旨さへと導いたのは、
素材である“米”と、
その製法に徹底的に
こだわったからこその
成せる業といえるでしょう。

まずは原材料となる“米”。

最高品質を誇る山田錦の生産地
として名高い兵庫県三木市吉川町産
へのこだわりです。

菊正宗と100年を越える
長い絆で結ばれた
契約農家「嘉納会」が管理する
特A地区(作柄がとくに優れた地区)
で収穫された品質の高い
山田錦だけを使った贅沢さ。

そして製法については、
手造りにこだわったからこそ
実現できた、
風味豊かな味わいということ。

仕込みが終わり、搾った酒を
1本ずつ丁寧に手作業によって
瓶に充填。

充填した酒は、
生きた酵母の働きによって
継続醗酵を促し、
約1ヵ月の時を経て
緩やかな泡が発生しはじめるのを
待ちます。

次の工程では、継続醗酵を終えた酒を
冷蔵倉庫にて保管。

ピュピトルという台に
瓶を逆さまにやや傾けて挿し、
毎日少しずつ丁寧に回転させながら、
徐々に瓶を逆さまに
直立させていきます。

この工程は
“ルミアージュ(動瓶)”と呼ばれ、
約1ヵ月かけて役目を終えた
酵母(澱)を瓶口に沈殿させること
が目的です。

続く工程は
“デゴルジュマン(澱抜き)”
と呼ばれる工程で、
瓶口に沈殿した澱を
-25℃で凍結させ、
開栓すると同時に凍結した
澱だけを飛ばして除去します。

そして、濁りのないクリアな酒質
となったところで、再び打栓。

その後、火入れ殺菌を行うことで、
発泡感、香り、旨さが瓶内に宿った
「RIZING」が誕生します。

これだけ、素材にこだわり、
手間ひまをかけた酒ですから、
旨くない訳がありません。

 

菊正宗_スパークリング純米酒_RIZING_ライジング_720ml_雷

“RIZING”は、雷神に通じる。
昔から伝わる雷と農業の深い関係。

超特撰スパークリング純米酒
「RIZING」の名前には、
もうひとつの意味合いが含まれます。

それは、発音した時の音の響きが
似ている“雷神”です。

古くから日本では、
雷が多く発生する年は
豊作になることが多かったため、
“稲妻は豊作の兆し”と言い伝えられ、
“稲の夫(つま)”が稲妻の語源で、
“雷光が稲に降り注ぐと
稲が子を宿す”とされてきました。

気象学的に考えると、
雷が多い時は降水量や日照が多く、
気温が高いなど、
稲の生育に都合が良い条件が
整っているようです。

また、近年になり、
これは雷が空中放電することで
大気中の窒素が
イオン化されて雨に溶け出し、
その雨が大地に降り注ぐことによって
天然の肥料が撒かれた状態となり、
豊作になるのではという仮説を立て、
その研究が進められていとのこと。

昔の人は、轟きわたる雷鳴や閃光は
“雷神”による“神鳴る”ことと捉えて、
自然の驚異に対する
畏怖の念を抱くとともに、
豊かな実りをもたらしてくれる
吉兆として崇めていました。

その自然の恩恵に対する気持ちは、
“稲妻”のほか“稲光”など、
その深い関係を表す言葉が
残されています。

最高品質の“米”を、
手造りにこだわって丁寧に仕込み、
自然の力を借りながら、
最適の環境の中で
時間をかけて造り上げた
超特撰スパークリング純米酒
「RIZING」。

至宝の逸品に仕上がっております。

菊正宗_スパークリング純米酒_RIZING_ライジング_720ml_商品化粧ケース

20年という節目を迎える至宝の純米大吟醸「オデュッセイア」。

ガンダム、“横浜の”大地に立つ。

横浜・山下埠頭で
建設が進められていた
原寸大ガンダムが
12月19日(土)から
動きはじめます。

これは、人気アニメ
“機動戦士ガンダム”の
40周年記念事業のひとつとなる
プロジェクト
「GUNDAM FACTORY YOKOHAMA」として
2014年に着工したもので、
組み立てられる様子は
Youtubeなどで定期的に
公開されていました。

実際に、全長18メートルの高さの
巨大建機のような躯体が
ドック(格納庫)から動き出し、
肘や膝が大きく動く様子は、
ファンならずとも
心が躍り出すような
気持ちになります。

正面に位置するカフェで
食事をとりながら全体像を見たり、
足元まで近寄って見上げたり、
圧巻なのはドック5階・6階から、
横浜港の景色に融け込んだ
格納庫内のガンダムとの
記念撮影が撮れたりすることです。

原寸大ガンダムは、マンションの
6〜7階の高さがあるので、
そのスケール感には
圧倒されるばかり。

海外ファンからも
“クール”“ファンタスティック”
という称賛の声が、
数多く寄せられています。

最初の“機動戦士ガンダム”が
公開されたのは
1979年(昭和54年)。

マジンガーZにはじまる
“巨大ロボットアニメ”の
流れをくむ作品です。

敵味方両方の生き方を練り込んだ
ストーリーが、
視聴対象の小学生には少々難しくて
当初の人気はイマイチでしたが、
再放送で中高生以上に
注目されはじめ、
最終的には大ヒット作に。

その結果、新たな後継シリーズが
長年にわたり続くことになります。

そして、シリーズの約半分は、
名作映画のスターウォーズのように、
設定された時間軸がストーリーとして
部分的につながる
一大叙事詩となっています。

また、ガンダム人気を語る上で
忘れてならないのが、ガンプラ
(ガンダム関連プラモデル)の存在。

現在までに約2000種類以上、
約5億個が売れており、
プラモデル業界を一新させる
コンテンツとなりました。

世代を超えて
人気を継承し続けている理由に、
いまだ新作が登場するガンプラが
大きくかかわっているのも事実です。

 

White gypsum copy of ancient statue of Homer head for artists isolated on a black background. Plaster sculpture of man face.

菊正宗の“オデュッセイア”。
長い歴史を刻み込んだ逸品です。

ガンダムにとどまらず、
アニメや映画、漫画などの
エンターテインメント作品の人気を
左右する大きな要因のひとつに、
登場する名称の設定がある
という向きもあります。

たとえば人気アニメの
“ヱヴァンゲリヲン”。

登場人物の名前に日本を代表する
歴代戦艦の名称が付され、
人類の敵となる使徒は
キリスト教伝来の天使名が由来です。

漫画やアニメ、実写映画にもなった
“ジョジョの奇妙な冒険”
の登場人物やその能力には、
ロックミュージシャンの名前や曲名、
アルバム名などが使われ、
音楽ファンの取り込みに
成功しました。

スターウォーズ作品にも、
日本由来の名称が
数多く刻まれています。

これら以外の
エンターテインメント作品にも、
星座名やギリシャ神話、童話などに
登場する名称を
見つけることができます。

これは、その名称がかかわる物語や
その背景を紐づけることで、
より深い厚みのある作品に仕上がる
と考えられているからに
ほかなりません。

なかでも、
ギリシャ神話に由来する名称は、
その神秘性に加え、
単語が持つ響きが覚えやすく、
イメージを広げやすい
素材のようです。

前出のガンダムにおいても、
登場人物の名前や
地名の由来が公開されており、
ギリシャ神話由来としては、
主人公アムロ・レイの
精神成長に大きくかかわり、
終盤へと導く重要な役割を担う
ララァ・スンが搭乗する
モビルアーマー
“エルメス(ヘルメス)”をはじめ、
巡洋艦ムサイ(文芸の女神)など、
シリーズを通して、
ギリシャ神話に登場する名称が
数多く使われています。

こうしたギリシャ神話に
名を連ねる神々を
一挙に世界へと広めたのは、
詩人ホメロスの叙事詩
「イーリアス」と
「オデュッセイア」。

この二つは世界三大叙事詩に
数えられることもある、
口伝をまとめた英雄叙事詩です。

「イーリアス」は
トロイア戦争での
勇将アキレウスの戦いと
苦悩の10年間を、
「オデュッセイア」は、
トロイア戦争に勝利した
知将オデュッセウスが
10年にわたる苦難と
冒険に充ちた漂流の末、
故郷に戻る物語です。

知将オデュッセウスは
「イーリアス」でも
重要な役割を担い、
「オデュッセイア」では
彼が主役の物語
ということを考えると、
「イーリアス」は、
本編「オデュッセイア」への導入
となる序章に位置づけられ
、二つの叙事詩は、
ひとつにまとまった
英雄叙事詩「オデュッセイア」
といえるように感じます。

オデュッセウスが故郷を離れて
戦場におもむき、
トロイア戦後の漂流の果てに
故郷に戻る20年間の冒険談は、
その深く刻まれた
歴史の壮大さと感動を
はらんでいるのかも知れません。

そんな「オデュッセイア」の
名前を冠する日本酒が
菊正宗から発売されました。

究極の味吟醸を求めて、
2001年に瓶詰めをした
長期冷却熟成の至宝の逸品は、
発売と同時に
20年目の年を迎えます。

ギリシャの叙事詩
「オデュッセイア」の
主人公であるオデュッセウスが
故郷に戻るまでの20年間と同じように、
“時をつなぐ”至福の味わいを、
大切な時にお召し上がりください。

菊正宗の純米大吟醸
「オデュッセイア」について、
後のコラムで詳しくご紹介します。

ラッピングトレイン「Go!Go!灘五郷!」。静かな話題になっています。

楽しさ満載のラッピングトレイン
「Go!Go!灘五郷!」は、
今日も走っています。

突然ですが、
もう「Go!Go!灘五郷!」を
ご覧になられましたか…といっても、
何のことか判らないですよね。

「Go!Go!灘五郷!」とは、
大阪-神戸間を結ぶ
阪神沿線に広がっている
日本酒の一大産地
“灘五郷”があることを
PRするために、
阪神電車の車両に装飾した
ラッピングトレインの名称です。

正しくは、灘五郷酒造組合、
神戸市、西宮市、
阪神電気鉄道の4者で構成する
「灘の酒蔵」活性化プロジェクト
実行委員会が推進する
プロジェクト活動の総称が
「Go!Go!灘五郷!」で、
その活動の一環となるのが
同じ名前を冠する
ラッピングトレイン。

言うなれば
「Go!Go!灘五郷!」号
といったところでしょうか。

文化庁の日本遺産に認定されている
“灘五郷”は、今でも昔ながらの
板塀の酒蔵が連なる場所が点在する
風情豊かなロケーションが魅力です。

昔にタイムスリップしたかのような
景観に加え、いくつかの酒蔵には、
その蔵の歴史を伝える記念館や博物館
が併設されている所も多く、
軽い運動を兼ねた散策には
もってこいのスポットといえます。

「Go!Go!灘五郷!」は、
2020年10月13日(火)から
運行を開始しており、これから
約2年間継続される予定です。

実は今回の
ラッピングトレインの運行は第2弾。

車体を彩るイラストを手がけたのは、
2017年10月~2019年11月まで
約2年間にわたって運行した
第1弾と同様、
大阪在住のイラストレーターの
山口哲司氏で、彼によると
“絵のタッチを少し柔らかくし、
日本酒や酒蔵を印象的に描きました。
また、季節にあわせてお酒と食を
味わう猫たちも描いています。
「乗れば、灘の酒が恋しくなる」
そのように楽しんでもらえると
嬉しいです”とのこと。

車両デザインのテーマは
「四季折々の日本酒の楽しみ方」。

「Go!Go!灘五郷!」は
6両編成で、先頭車両と最後尾車両に
あしらわれているのは
酒蔵と酒に関する道具類で、
はさまれた4両は
春夏秋冬を表すイラストで構成。

5両目の春は「花見酒」、
4両目の夏は「涼み酒」、
3両目の秋は「ひやおろし」、
そして2両目の冬は「しぼりたて」と、
季節に応じた日本酒の楽しみ方を
可愛い猫のイラストレーションで
表現しています。

また、第1弾で好評だった
ミニチュアの菰樽がついた吊り革を
1両あたり8本を配し、座席側面の
「Go!Go!灘五郷!」ステッカーなど、
乗車中も楽しめる
灘五郷一色の列車となっています。

 

市民権を得た“鉄ヲタ”。
なかでもラッピングトレインは、
“撮り鉄”に人気。

ラッピングトレインは、
鉄道マニアにも、
かなり高い人気があります。

余談となりますが、
昔ながらの鉄道マニアは、
いつの頃からか鉄道オタク、
通称“鉄ヲタ”と呼ばれるようになり、
やがて鉄道写真を撮る“撮り鉄”や
乗車することが目的の“乗り鉄”、
鉄道関連の音(走行音、
発車メロディ、車掌アナウンスなど)
を録音して楽しむ“録り鉄(音鉄)”、
電車でGO!などの鉄道に関する
ゲームを楽しむ“ゲーム鉄”など、
その嗜好性はより幅広く細分化され、
鉄道オタクを題材にした
映画やアニメが公開されたり、
テレビのバラエティ番組等で、
大物俳優やタレント、アイドル、
ミュージシャンなどが“鉄ヲタ”ぶりを
カミングアウトするにつれて
市民権を得るようになりました。

新型コロナ禍で、
新しく加わったのが“グー鉄”です。

これは鉄道に興味を持つ参加者が
パソコンを通してリモートでつながり、
“○○線”などの鉄道路線を
お題として設定。

グーグルマップのストリートビューで
その路線の沿線を
クリックで移動しながら、
そこに映り込んだ鉄道車両の
もっとも“映える”キャプチャーを
撮って披露し合うというものです。

いわば“撮り鉄”の進化系
といったところでしょうか。

「Go!Go!灘五郷!」については、
やはり“撮り鉄”の独壇場でしょうか。

内装を楽しむという点では
“乗り鉄”の興味も
惹くのかもしれません。

「Go!Go!灘五郷!」に使われるのは
急行系車両の阪神1000系電車。

普段の一般的な車両の姿を
漏れなくカメラに納める
“撮り鉄”にとって、
運行本数が少なく期間が限られている
レア度の高い観光列車やイベント列車と
同じ位置づけのラッピングトレインは
興味津々の撮影対象といえます。

“撮り鉄”のあるあるネタですが、
田舎のローカル線の
ラッピングトレインは、
ほぼ乗ることができないそうです。

運行本数が少ないことに加え、
ベストショットを狙うため、
乗っている時間がないとのこと。

魅力いっぱいの「Go!Go!灘五郷!」は、
ほぼ毎日数本が運行され、
それが約2年間継続されるので、
“撮り鉄”にも存分に乗車して
楽しんでもらえそうです。

また、“灘五郷”が沿線にある
阪神本線(大阪梅田~元町)にとどまらず、
阪神なんば線(尼崎~大阪難波)や
神戸高速線(元町~西代)、
さらに相互乗り入れ等により、
山陽電鉄線(西代~山陽姫路)や
近鉄線(大阪難波~近鉄奈良)
でも運行が予定されているので、
阪神電車利用者は、かなりの確率で、
「Go!Go!灘五郷!」に出会えそうです。

夭逝の俳人「正岡子規」は、知る人ぞ知る無類の柿好き。

法隆寺

有名な“柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺”にまつわる物語。

“柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺”
という句は、
正岡子規が生涯で詠んだとされる
約20万句以上の俳句の中で
もっとも有名なもの
といえるでしょう。

この句の初出は、
1895年(明治28年)11月8日の
「海南新聞」での掲載です。

この句が誕生した背景には、
持病の結核が大きく関係しています。

後に子規と名乗る正岡常規
(つねのり/別名は升(のぼる))
が、故郷の松山から
政治家を志して上京し、
東大予備門(旧制一高の前身/
現在の東大教養学部)に入学し、
生涯を通じて友となる
夏目漱石と出会いました。

また当時アメリカから
入ってきたばかりの
“ベースボール”に熱中する
血気盛んな青年でしたが、
ある日突然の喀血。

その翌日、結核と診断されました。

1889年(明治22年)、彼が22歳の時のこと。

ちなみに、
自らの俳号を“子規”としたのは、
中国の故事で“血を吐くまで鳴く”
とされるホトトギスの
漢字表記を用いたもので、
喀血した直後から
“子規”を名乗りはじめます。

結核により、
政治家になる夢がついえた子規は
新聞記者になり、
周囲に反対されるなか、日清戦争に
連隊つきの記者として従軍。

しかし大陸に渡った2日後に
下関条約が締結。

日清戦争は事実上の終戦を迎え、
帰国の途に着いた
1895年(明治28年)5月、
子規は船中で喀血。

結核の再発です。

そのため、神戸須磨での療養を経て、
故郷の愛媛県松山に戻り、
約半年間の療養を
余儀なくされることとなりました。

故郷の松山では、
松山中学の教員として赴任していた
夏目漱石と約2ヵ月近く同居
していたそうです。

やがて病状が回復して東京に戻る途中
、数日間、立ち寄った奈良で
詠まれたのがこの有名な俳句です。

それと一緒に、

“渋柿やあら壁つゞく奈良の町”

“渋柿や古寺多き奈良の町”

“柿落ちて 犬吠ゆる奈良の 横町かな”

“奈良の宿 御所柿くへば 鹿が鳴く”

という、すべてに“柿”という言葉を
使った句が残っています。

また、
この句が詠まれた日にちなんで、
全国果樹研究連合会によって、
10月26日は「柿の日」
に制定されました。

後に子規の随筆「くだもの」で、
当時の滞在していた奈良の宿での
出来事が紹介されています。

それによると、宿屋の下女が
持ってきた御所柿を食べている時に
東大寺の釣り鐘の音が響いた
と記されていることから、
実際は法隆寺ではなく東大寺の
鐘の音ではないかという説や、
病み上がりということもあって、
そもそも法隆寺には行かなかった
という説があります。

また、この句を発表する2ヵ月前の
1895年(明治28年)9月、
同じ「海南新聞」に掲載されていた、
漱石の“鐘つけば銀杏散るなり建長寺”
という句に引きずられたのでは
という説もありますが、
当人たちがそれに触れることはなく、
どの説も定かではありません。

親友の夏目漱石も舌を巻いた、正岡子規の無類の柿好き。

子規の俳句には、
しばしば柿が登場します。

というのも、子規は無類の柿好きで、
“樽柿”を一度に7〜8個も食べる
のを常としていたとのこと。

“樽柿”とは、酒樽に渋柿を詰め、
樽に残ったアルコール分によって
渋を抜いた柿のことで、
どちらかといえば安物の柿。

また晩年には、
“我死にし後は
柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし
(私が死んだら、柿食いの
俳句好きと言ってほしい)”
という言葉が残っているほどです。

友人の夏目漱石の「三四郎」に
“子規は果物がたいへん好きだった。
かついくらでも食える男だった。
ある時大きな樽柿を
十六食ったことがある。
それでなんともなかった。
自分などはとても
子規のまねはできない。
…三四郎は笑って聞いていた。”と、
正岡子規の柿好きを
表した場面が登場します。

東京に戻った子規は、
1902年(明治35年)9月に
34歳で亡くなるまで、
ほとんどを病床に臥せって
過ごすことになりますが、
俳句や和歌に関する造詣は
より研ぎ澄まされ、
病床から旺盛な創作活動を
亡くなる直前まで続けました。

友人や門人たちは
子規の柿好きを知っていて、
こぞってお見舞いに送ったのが柿で、
それを食べ過ぎて腹をこわし、
医師から告げられたのが柿の断食。

それを知らずに届く柿のお見舞いを、
病床の周りで家族が食べる様子を
恨ましく思ったようで、
その時の心情を
俳句にしたためたものが
数多く残っています。

“柿くはぬ病に柿をもらひけり”

“我好の柿をくはれぬ病哉”

“胃を病んで柿をくはれぬいさめ哉”

“側に柿くふ人を恨みけり”。

柿好きの正岡子規にとって、
病気の苦しさもさることながら、
大好物の柿を口にできないことが、
さぞ悔しかったようで、
若くして死を迎えるまでの
数年間に詠まれた柿の句には、
その心情が見事なまでに
描かれています。