黄色く色づき始めたイチョウの木が並ぶ街路で、涼しい秋の足音を感じて。

街路樹としてイチョウが植えられているのには、ちゃんとした理由があります。

イチョウの街路樹が
黄色く色づく頃、
夏の厳しい暑さも和らぎ、
日が落ちた後の風には
涼しさを感じる
過ごしやすい季節となりました。

ここから一気に冬へと、
季節は駆け抜けていきます。

日本全国に植えられている街路樹で
もっとも多いのがイチョウです。

それに続くのが、
サクラ、ケヤキで、
どれも落葉樹です。

落葉樹は冬の到来とともに
文字通り“葉を落とす”ので、
一見、街路樹には
不向きのような気がします。

しかし、
落葉樹が多く植栽されているのは、
短い期間だけ花を咲かせるサクラ、
季節ごとに葉の色を変える
イチョウやケヤキなど、
四季の変化を楽しむ日本人特有の
感覚を大切に考えた
景観づくりのようです。

サクラの花びらや
赤や黄色に色づいた落ち葉が、
ハラハラと散り落ちる様子や
絨毯のように道を覆う様子、
くるくると風に舞う様子など、
それぞれのシーンに
季節の風情を感じさせてくれます。

季節を彩る美観のためには、
清掃の手間を惜しむことはありません。

また春から夏にかけて
青々と生い茂った葉が
涼しい木陰をつくって
夏の直射日光を遮るとともに、
樹木が持つ余分な水分を
葉の裏側の気孔から
蒸散する働きにより、
涼感を肌に感じさせてくれます。

逆に、冬になって葉は枯れ落ち、
冬のやわらかい陽射しを
遮ることなく届けてくれるのも、
落葉樹の効果ともいえるでしょう。

とりわけイチョウが
街路樹として好まれるのには、
いくつかの理由があります。

イチョウの木は、成長が早く、
冬の寒さや病害虫に強く、
剪定しても樹木が弱ることなく
成長を続けるため、植栽後、
数年で街の景観に馴染むとともに、
強い樹木ならではの
管理のしやすさが好まれるポイント。

成長が早い割に
樹齢1000年以上とされる
ご神木クラスの巨木も
全国に点在するようで、
長命種だからこその
植え替えの手間がかからないのも
魅力のひとつといえます。

余談ですが、
歌舞伎の世界で、
長寿とその生命力の強さから
イチョウを用いた家紋は、
片岡家(松嶋屋)が
“追いかけ五枚銀杏”、
中村家(中村屋)が
“角切銀杏(すみきりいちょう)”、
市川染五郎(高麗屋)が
“三つ銀杏”を縁起の良い
“瑞祥紋(ずいしょうもん)”
として用いています。

また、
街路樹が植えられる場所は
道路沿いが多く、
車の排気ガスにさらされる
過酷な環境への順応も
大切な要因です。

さらに、
他の木と比べて
幹や葉の水分量が多いので、
火に強い特性があります。

イチョウの木によって
延焼を食い止めたという事例も
多く報告されているようです。

さて、
イチョウにつきものなのが
銀杏(ギンナン)で、
地面に落ちたギンナンは
歩行者に踏まれ、
独特の鼻につく臭いが
拡まってしまうという
問題点もあります。

イチョウはオスメスが分かれる
雌雄異株で、ギンナンの
実をつけるのはメスの木。

現在は、その対策として、
実をつけないオスの木に
植え替えるなどの方法も取られ始め、
地域によっては、
地域の人たちにギンナンを
持ち帰ってもらうイベントなどの
取り組みも行われています。

普段あまり気にすることがない
イチョウですが、改めて見上げると
その力強さを再認識させてくれます。

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“実りの秋”。たわわに実った稲穂に想いを馳せる。

「お米」はずっと、お金の代用品としての役割が続きました。

秋も深まり、郊外に足を延ばすと、
たわわに実った稲穂がこうべを垂れ、
一面に広がる
黄金色に染まった景色が、
“実りの秋”を感じさせてくれます。

時折吹く一陣の風が
穂先を揺らす様は、
水面に波紋が広がるような
美しさにも似て、
まさに日本の原風景そのもの
といったところです。

人と稲の付き合いが始まったのは
約3万年前の石器時代のこと。

それまでは
野生の獣や魚、木の実を獲って
食べていましたが、
野生の稲の種子を蒔いて
収穫することを覚え、
食料を生産するようになると同時に、
同じ場所に定住するという概念が
生まれました。

日本に
大陸から米作りが伝わったのは、
約12000年から2500年前の縄文時代。

日本米のルーツとなる
“ジャポニカ米”で、
アジア稲作圏の最後に
日本へと伝播したのですが、
日本の高温多湿な気候風土に
適していたこともあり、
稲作は瞬く間に定着。

日本全国に稲作が広まったのは
紀元前5世紀から
紀元3世紀半ばにかけての
弥生時代とされています。

静岡県の「登呂遺跡」からは、
畦(あぜ)で区分けされた
弥生水田が発掘され、
用水路や水を湛えるための
堰(せき)が整備され、
併せて、
水田の近くに竪穴式住居や
高床式倉庫の跡も見つかっており、
いわゆる“農村”の原型は
この時代に確立し、
米作りを中心に
社会ができていきました。

卑弥呼が治める
邪馬台国が台頭したのも、
ちょうどこの頃です。

大和時代から時を経て、江戸時代へ。

いつの時代も社会の中心にあったのは
“お米”です。

米の生産能力が高く、
多くを備蓄できる古代の豪族や
武家社会の藩が権力を持つ、
いわゆる“お金”の役割ということが
江戸中期辺りまで続きました。

食べ物としての“お米”は
ずっと貴族階級の特権で、
庶民がお米を
食べられるようになったのは
江戸時代になってからのことです。

それも
節句などの特別な“ハレの日”に
食べる程度で、
普段は粟や稗などの雑穀が中心。

時代劇などでは
年貢の取り立てが厳しく、
農民は
米を食べることなどできなかったと
描かれていますが、
実は精米がことの外、重労働で、
日々忙しい農作業にかまけて
自分たちの食事にまで
手が回らなかったという説も。

また、美味しいご飯の炊き方の
“初めチョロチョロ、中パッパ、
赤子泣いてもふたとるな”
という表現は江戸中期に
確立したといわれています。

しかし、現代のように、
当たり前に白いご飯を食べる習慣が
根付いたのは、
第二次世界大戦以降に
なってからです。

お米の品種改良によって
育てやすい品種が生まれ、
農業機械の導入が著しくなり、
精米技術が格段に向上したことなど、
白いご飯を主食とするだけの背景が
整ったといえるかも知れません。

またお米の品種改良は、
食用米だけでなく、
心白の大きい酒造好適米(酒米)の
誕生も促しました。

人との長い付き合いの
“お米”ですが、
現在のように普通に食卓で
美味しく食べられるまでに
要した時間は、
日本に伝わってからの
少なく見積もっても約2500年以上。

この遥かな歴史に思いを馳せ、
美味しくご飯をいただき、
旨い酒を飲む喜びを、
改めて噛み締めたいものです。

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食欲の秋を彩る「きのこ」づくしの料理を肴に、樽酒で乾杯。

収穫してすぐに産地直送されるから、味も香りも格段に違います。

秋の美味しい味覚とされる
“きのこ類”。

なぜこの時期に
旬が集中するのかというと、
前の年の秋に散らした胞子が
春から秋にかけて種菌が根を張り、
培地となる菌床をカタチづくり、
胞子をまく構造を持つ
“子実体(しじつたい)”
この“子実体”が、
いわゆる“きのこ”のことです。

日本には、4000から5000種類の
“きのこ”が生息し、
その中で食べられるものは
約100種類程度。

市場に流通しているものは、
「しいたけ」や
「しめじ」、「まいたけ」など、
わずかに15種類程度と、
食材としてはかなり狭く
限定されています。

“きのこ”の名前は、
「しいたけ」は椎の木、
「まつたけ」は松の木、
「えのきだけ」は榎の木…
それぞれの倒木や切り株辺りに
群生していたことに由来。

“きのこ”そのものも、
木を宿主として生えていたことから
“木の子”と
呼ぶようになったようです。

さて、
“きのこ”の魅力のひとつに、
その高い栄養価があります。

もちろん“きのこ”の種類によって
若干異なりますが、
どの種類も
100gあたり20kcal前後という
低カロリーなのに、
ビタミンB1、ビタミンB2、
ビタミンDや、カリウムやリン等の
ミネラル類が豊富に含まれます。

また、食物繊維を多く含んでいるのも
大きな特徴のひとつです。

とくに今年は、
猛暑日、熱帯夜が続く酷暑で、
心身ともに疲れ切った状態。

日々不足しがちな
ビタミンやミネラルを手軽に補える
“きのこ”は、
疲労回復や健康増進、
免疫力を高めるなど、
最適の食材といえます。

そんな“きのこ”の調理にあたって
疑問となるのが、
“調理の下準備であらうかどうか”
という点。

料理人や料理研究家の見解で多いのは
“洗わない”という意見。

水で洗うと
栄養素や風味が水と一緒に
流れ出てしまうので、
石づき(軸)を切り落として、
キッチンペーパーや料理用のハケで
土やホコリを軽くぬぐい落とす程度で
下準備は完了。

どうしても、気になる方は
軽く流水にくぐらせても
いいでしょう。

菊正宗ネットショップでは、
奈良・東吉野の
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すべて無農薬で、
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最良のものだけが出荷される
詰合せセットは、
まさに贅沢の極み。

ジューシーで噛んだ時の弾力が
何ともいえない「ぶなしめじ」は、
天ぷらや鍋物に。

菌床の熟成期間を長くとった
濃厚な味わいの「しいたけ」は
焼いた後、シンプルに塩で。

認知症への効果が期待できる
エルゴチオネインを豊富に含む
珍しい「たもぎたけ」は、
歯ごたえが魅力で、
天ぷらや焼き物がおすすめ。

よくいわれる
“香りまつたけ。味しめじ”の
「しめじ」は、「ひらたけ」のこと。

味が濃く、旨み成分も豊富なので、
出汁の風味づけがおすすめです。

鍋物や炊き込みご飯などで
ご堪能ください。

「ひらたけ」は
生産量に限りがあるため、
「ひまらやひらたけ」に
代替されることもあるようです。

週末は
“きのこ”づくしの料理を肴に、
旨い「樽酒」で
秋の夜長を楽しむとしましょうか。

奈良時代の「万葉集」から連綿と続く、季節を代表する「秋の七草」。

“春”は“七草粥”に入れて健康増進、“秋”は季節を鑑賞して楽しむ組み合わせ。

「秋の七草」について
小学生の頃に学んだのは、
はるかに遠い昔の記憶です。

「春の七草」を学んだ印象の方が強く、
どちらかというと「秋の七草」は
そのついでだったような気がします。

また、両方の“七草”を
そんなに意識する機会も少なく、
しいて挙げれば、毎年1月7日の
“人日の節句”に
「春の七草」を使った
“七草粥”を食べることが
ニュースになる程度です。

実は、「春の七草」と「秋の七草」は、
まったく別の組み合わせなのです。

「春の七草」の元になった
“七草粥”は、
“七種菜羹(しちしゅさいこう)”
という7種類の野菜が入った汁物を
食べて無病息災を願った古代中国の
風習が起源です。

これが奈良から平安時代辺りに
日本に伝わり、日本の風習の
“若菜摘み”と合わさって
日本の“七草粥”が誕生しました。

地方によって異なりますが、
定番とされる組み合わせは
鎌倉時代の「年中行事秘抄
(ねんじゅうぎょうじひしょう)」や
「河海抄(かかいしょう)」という
文献で紹介され、
“せりなずな 御形はこべら 仏の座
すずなすずしろ これぞ七草”と
和歌のスタイルで書き記されたのは
室町・足利義満の時代に編纂された
「梵灯庵袖下集(ぼんとうあんそで
したしゅう)」という文献が
初見とのこと。

一方、「秋の七草」は、
「春の七草」のように
食べるのではなく、その美しさを
鑑賞して愛でるのが目的です。

その由来は、奈良時代の「万葉集」に
収められている
“山上憶良(やまのうえのおくら)”の
次の2首の歌とされています。

“秋の野に 咲きたる花を 指折り
(およびをり)
かき数ふれば 七種(ななくさ)の花”
“萩(はぎ)の花尾花葛花瞿麦
(をばなくずばななでしこ)の花
女郎花(をみなへし)
また藤袴(ふぢばかま)
朝貌(朝顔/あさがほ)の花”。

現在では印象が薄い感のする
「秋の七草」ですが、
「春の七草」よりも歴史は古く、
日本で代々受け継がれてきた
秋の草花に対して親しみを込めて
まとめたものといえます。

“萩”は四季を通して万葉集で
もっとも多く詠まれている代表格の花。

“尾花”はすすきの別称で、
花としてはやや地味ですが
秋を代表する植物です。

“葛花”は秋になると葉の間から
大きな赤紫の花を開花させます。

“なでしこ”は
日本の女性を表すときに例えられる
繊細で可憐な花。

“女郎花”も万葉集でよく詠まれる
昔から馴染みの深い花のひとつです。

上品な“藤袴”も
秋を代表する花のひとつです。

“朝貌(朝顔)”については、
私たちが知る“朝顔”はこの時代に
日本に伝わっておらず、
平安時代に編纂された
「新撰字鏡(しんせんじきょう)」
によると“桔梗”を
指しているようです。

また、“葛(葛根)”“桔梗”
“女郎花(敗醤根)”などは、
生薬や民間薬として用いられ、
風邪の初期症状への処方に
期待が持てるとか。

派手さはないものの、長年にわたって
季節を彩る花として私たちの生活に
馴染んできた「秋の七草」。

野原を散策する機会があったら、
足を止めて、昔の歌人にならって、
これらの花を愛でる時間を
大切にしたいものです。