菊正宗「大吟醸deあま酒」が“飲む点滴”“飲む美容液”と称される由縁。

朝の情報番組での“飲む点滴”紹介で、「甘酒」の市場規模が急成長。

ずっと以前から、「甘酒」は、
主に50から60代が購買層の中心で、
知る人ぞ知る健康補助食品
という位置付けでした。

ところが、2016年(平成28年)、
朝の情報番組で、
栄養豊富なところにスポットを当てた
“飲む点滴”というキャッチーな
フレーズで紹介されて以降、
他の情報番組でも
取り上げられるようになり、
さらに、その含有栄養素から
“飲む美容液”
とも紹介されたことから、
20〜40代女性層の支持を得て
大きなブームに。

いわゆる“甘酒女子”の誕生です。

2015年(平成27年)までの
「甘酒」市場規模は、
50〜75億円規模だったものが、
2016年(平成28年)には、前年比
約4倍の200億円を突破した
「甘酒」の第一次ブームが到来。

時間とともに一過性の流行は
治ったものの、これをキッカケに、
「甘酒」の市場規模は約290億円とも
いわれるほどにまで成長しました。

とくに現在、コロナ禍にあって、
免疫力向上への期待から
消費が急増している醗酵食品。

その醗酵食品の代表格ともいえる
「甘酒」は、これまで以上に
消費者の健康志向が高まったことや、
自宅時間が増えることで
幅広い年齢層に飲用習慣が
定着していきました。

また、自宅時間でスイーツや料理の
隠し味に「甘酒」を使うなど、
第二次ブームの到来と見る向きも
いるようです。

「甘酒」の市場規模が
大きく成長するに伴って、
「麹甘酒」の需要が一気に増加し、
市場全体の6割以上を
占めるまでになりました。

以前にもこのコラムで紹介しましたが、
「あま酒」はその製法によって、
大きく、「麹甘酒」と「酒粕甘酒」の
2つに分類されます。

「麹甘酒」は、麹菌による酵素の力で
米の澱粉をブドウ糖に、
タンパク質をアミノ酸に分解。

麹菌が生産する機能性成分を
余すところなく摂取できる
自然由来のブドウ糖やオリゴ糖
による甘味を持った「甘酒」です。

米麹から造られた「甘酒」なので、
アルコールは含まれておらず、
アルコールが苦手の方や子供さんなど、
安心して飲むことができます。

「酒粕甘酒」は、酒粕を水で溶かして、
砂糖添加により甘さを調整。

酒粕が有する機能性成分を
余すところなく摂取できる
「甘酒」といえます。

ご存知のように、酒粕は、日本酒を
造る際の残った搾りかすで、
日本酒はもともと、
米と麹と水を原材料にして、
麹菌や酵母菌などの働きによって
アルコールがつくられるため、
酒粕にもアルコール分が残り、
日本酒のようなフルーティーな香りや
深いコクを楽しめる一方、
アルコールに弱い方や妊娠中の方、
お子さんは、飲む際の注意が必要です。

 

麹由来と酒粕由来。
菊正宗の「大吟醸deあま酒」は夏場の栄養補給に最適。

「麹甘酒」の主な栄養成分は、、
ブドウ糖、アミノ酸、オリゴ糖、
ビタミンなど。

ブドウ糖は小腸からそのまま
吸収されるため速やかな
栄養補給が可能。

また、ブドウ糖だけではなく、
アミノ酸、オリゴ糖、ビタミン
などといった栄養素が豊富に
含まれることから
“飲む点滴”と呼ばれているのです。

さらに、麹菌がつくるオリゴ糖は、
整腸作用が期待される
ビフィズス菌のエサとなり、
麹菌の菌体成分には
免疫賦活効果が認められています。

「酒粕甘酒」の主な栄養成分は、
ビタミンB2、B6、ナイアシン、
葉酸などのビタミンが大量に
含まれているのが特徴です。

清酒醸造工程において
酵素で分解されなかった
タンパク質(難消化性蛋白質)や
食物繊維(難消化性でんぷん)が
ギュッと濃縮されているため、
摂取した脂肪やコレステロールを
体外へ排出したり、
小腸での糖の消化吸収を抑えて
血糖値の急上昇を抑制したり、
大腸でビフィズス菌のエサになる
ことで整腸作用が期待できるなど、
非常に優秀な自然食品といえます。

それぞれに含まれている栄養成分は
異なりますが、注目したいのは、
どちらも美肌づくりに効果の高い
成分がさらに含まれる点です。

「麹甘酒」に含まれる
“エルゴチオネイン”は、
肌のキメを整える美肌効果が
認められて“飲む美容液”と称され、
「酒粕甘酒」に含まれる“α-EG”は、
保湿効果に加え、
肌細胞のコラーゲン密度を高める
効果が判明しています。

菊正宗では、このふたつの良い所を
ひとつにまとめた
「大吟醸deあま酒」を販売中。

大吟醸麹と大吟醸酒粕に由来する、
やさしい甘さとスッキリした後味、
滑らかな舌触りが、
「大吟醸deあま酒」の特長です。

夏場の暑さに疲れた身体への
エネルギーチャージとして、
ぜひお試しいただきたい商品です。

2020年の“東京”に紡がれた、「嘉納治五郎」の80年越しの熱い想い。

平和を願う“スポーツの力”は、数千年の昔から変わらない。

今年の夏は、いつもとは違う
“熱い闘い”
が繰り広げられています。

その原点となるのは、
遡ること約2800年前、
栄華を極めた
古代ギリシアで行われていた
スポーツ競技大会にたどり着きます。

4年に一度開催された
スポーツ競技大会の
最初の頃の記録は残っておらず、
現存する最古の記録となる
紀元前776年のものを
第1回としてカウント。

そして、長い時を経て、
西暦369年の第293回を最後に
スポーツ競技大会は、
その歴史に
幕を閉じることになりました。

計算の上では、1172年もの
歴史を重ねたこととなり、
記録が残っていない初期も含めると、
少なくとも1200年ほどの歴史が
あるのではと、
現在もギリシアの地では
初期の記録を求めて、
遺跡発掘が継続されています。

これだけ長く大きな
スポーツ競技の大会が続いたのは、
ゼウスを祭神とした
神事という意味合いが
強く反映されていたからでしょうか。

また、祭典競技期間は
すべての争いごとを止めて、
この祭典に挑むことが規定されていた
ということを考えると、
当時から“平和”への想いを、
スポーツに
託していたのかも知れません。

それから長い歳月を経て近代となり、
この“平和への願い”を継承した
世界的なスポーツ大会として
再開しました。

その根底には、
紛争国同士であっても、
この大会期間だけは
スポーツを通じて好敵手としての
絆を深めるという平和に向けた
理念が込められています。

そして、
極東の小さな島国であった日本が、
この国際スポーツ大会に
参加するキッカケとなったのは、
他ならぬ「嘉納治五郎」の
存在でした。

彼は、勝つことが目的の“柔術”を、
科学的な理論、精神的な鍛錬による
礼節を重んじる「柔道」へと
昇華させた側面が、
あまりにも有名です。

しかし、彼の偉業は、むしろ、
日本に大きな教育改革をもたらした
“教育者としての顔”ということは
あまり知られていません。

長期にわたる欧州視察によって得た
知識をもとに、国内で初めて
スポーツ振興という概念を
根付かせたのは、「治五郎」です。

また、“女子柔道”を始め、
男女が平等に勉強したり、
男女分け隔てなく
スポーツに打ち込むなど、
いち早く男女平等機会の
創出に奔走したことなど…
現在、当たり前のように行われている
体育の授業や放課後の部活動も、
「治五郎」が実際に教育現場で
成し得た実績のひとつです。

こうした、日本の教育改革の
先駆者である「治五郎」のもとに、
国際スポーツ大会組織委員会から
委員の就任要請が届いたのは
必然だったと思われます。

彼の興した「柔道」の競技人口が
欧州で増え始めたことをキッカケに、
彼の数々の教育に関わる取り組みが
認められた結果です。

礼に始まり礼に終わるフェアな
精神が宿る「柔道」を通して
広まった、彼の人望が
世界に認められた瞬間でした。

 

 

世界に根付いた「嘉納治五郎」が追い求めたフェアなスポーツマンシップ。

日本の代表としての組織委員就任は、
日本を国際大会へと
一歩近づけることになります。

彼の実直さはすぐに認められ、
組織委員就任の数年後には、大会への
選手派遣の要請が届きました。

ところが、
大会初参加前年に発生した
関東大震災の復興が
ままならない状態で、
大会への参加見送りを
検討する事態に。

しかし、“それまで積み上げてきた
スポーツの進歩を
止めるべきではなく、
海外に日本国民の
復興への意気込みを示す”という、
「治五郎」の強い主張のもと、
初めての国際大会参加を
無事終えることとなりました。

彼は、組織委員に就任して以降、
還暦を過ぎた人物とは思えないほど、
国際会議への参加や大会視察など、
精力的に世界を駆け回りました。

そして、1933年(昭和8年)に
開催されたウィーンでの総会で
東京大会の招致を主張。

その後も、東京招致に反対する
加盟国に決してひるむことなく、
堪能な英語を駆使して反論し、
東京大会の招致が決まりました。

しかし。

その翌年、洋行途中の船上で急逝。

彼が望んだ東京大会も
戦争により幻の大会となりました。

このことを
もっとも残念に感じているのは、
東京招致に奮闘した
「治五郎」本人であることは、
いうまでもありません。

それから80年、東京の地で
彼の望んだ熱戦が
繰り広げられています。

彼がもっとも大切にした
フェアなスポーツマンシップは、
「柔道」のみならず、
他の競技でも
ルールの基本として根付き、
彼の“子供たち”の活躍を
喜んでいるのは「嘉納治五郎」
本人に違いありません。

そんな「嘉納治五郎」の
偉大な足跡に敬意を評して、
菊正宗では、「治五郎」という名を
冠した灘の生一本を
ご用意いたしました。

この期間限定で数量限定。

売り切れる前に、
ぜひ記念にお求めください。

嘉納治五郎物語⑩
老いてなお、精力的に。
治五郎は79年を駆け抜けました。

嘉納治五郎師範ベルリンオリンピックへ向かうブレーメン号にて(1936)_菊正宗ネットショップブログ
ベルリンオリンピックへ向かうブレーメン号にて(1936)右から嘉納 治五郎 師範、チージンバイン船長、ガーランドアメリカIOC委員
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

関東大震災の復興のために、
オリンピック大会への参加で士気を鼓舞。

1923年(大正12年)9月1日、
巨大地震が首都圏を中心に発生。

関東大震災です。

地震発生直後に各地で火の手が上がり
、首都圏は、死者・行方不明者は
10万5000人ともいわれる
未曾有の大災害に見舞われました。

震災時、「治五郎」は樺太に出張中で
、“柔道”の講演や実技指導を
行ってるところでしたが、
急いで帰京。

すぐに、講道館を開放して
震災被災者の受け入れを開始し、
その数は延1000人を
数えたといいます。

復興がままならない状態で、
関東大震災の翌年の
第8回パリオリンピック大会
への参加を見送ることも
検討されましたが、
大日本体育協会は、
“大震災の復興に向けて、
国民の士気を鼓舞するために、
もっとも質素に
選手選考大会を開催して
代表選手を選び、
第8回パリオリンピック大会に
選手を派遣する”と決定。

“それまで積み上げてきた
スポーツ界の進歩を
止めるべきではなく、
海外に日本国民の
復興への意気込みを示す”
という、「治五郎」の主張が
受け入れられることとなりました。

また、この関東大震災に前後して、
講演、実技指導などによる
“柔道”の普及活動をはじめ、
女子教育の一環となる
“女子柔道部”を講道館に開設、
柔道理念を明確にした
“講道館文化会”の創設、
IOC(国際オリンピック委員会)
委員に就任して以降、
国際会議への参加や
オリンピック大会の視察など、
還暦を過ぎた人物とは思えないほど、
精力的に世界を駆け回りました。

とくに、第一次世界大戦で
壊滅的な被害を受けた
ベルギーの復興をめざした
第12回アントワープ
オリンピック大会では、
ヨーロッパ各国の政治経済状況や
混乱ぶりをつぶさに視察、
求めに応じて
“柔道”の講演や実演も実施。

“柔道”の基礎となる精神を
世界に伝えるために、
“精力の最善活用によって
自己を完成し(個人の原理)、
個人の完成が直ちに他の完成を助け、
自他一体となって共栄する
自他共栄(社会の原理)によって、
人類の幸福を求める”を意味する
「精力善用 自他共栄」を
という言葉を大きく発信して、
その理念を説いていきました。

そして、この
「精力善用 自他共栄」
を校是とする旧制灘中学
(現在の灘中・高等学校)を、
生まれ故郷の神戸に開校するために、
酒造両嘉納家や地元富豪の
篤志を受けた資金確保、
教職員の人材確保に奔走し、
1927年(昭和2年)に開校。

現在も、
「治五郎」の精神を受け継いだ
自由闊達な校風でありながら、
トップクラスの進学校として
名を馳せています。

 

嘉納治五郎師範氷川丸_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 氷川丸にて
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

東京オリンピック成功に向けた外遊中に
…巨星、墜つ。

関東大震災の復興と
帝都東京の繁栄を
国内外にアピールする狙いで、
1940年(昭和15年)に
開催される第12回
オリンピック大会を
東京に招致することを、
時の東京市長
(現在の東京都知事)らが提案。

第5回から参加して以降、
メダルを獲得するにまでなり、
「日本書紀」に基づく
日本建国2600年(皇紀)にあたる
記念すべき年ということもあり、
“東洋初のオリンピックを東京で”
という動きが起こりました。

その背景には、前年の
世界大恐慌の余波による
日本経済の大打撃を
払拭する目的も含んでいます。

波乱含みであった国内での問題も
なんとか解決し、
1932年(昭和7年)に、東京市長名で
オリンピック招請状をIOC
(国際オリンピック委員会)に提出。

1935年(昭和10年)の
IOCオスロ総会にて
開催地が決定する
という返事が返ってきました。

「治五郎」は
1933年(昭和8年)に開催された
ウィーンでのIOC総会に出席して
東京招致を主張し、
その後のIOCカイロ総会では、
東京招致に反対する
イギリスを中心とした
英連邦諸国の応酬に対して、
ひるむことなく、
堪能な英語を駆使して反論し、
主張を曲げることは
ありませんでした。

その甲斐あって
1937年(昭和12年)、
東京オリンピック大会の招致が
決まりました。

IOCカイロ総会後に、
前年に死去した
クーベルタン男爵の埋葬式に参列。

さらに日本支持の感謝を伝えるべく
アメリカに渡った後、
カナダのバンクーバー発の
大型客船での帰路、
風邪に肺炎を併発した
「治五郎」は帰らぬ人に。

1938年(昭和13年)
5月4日逝去、享年79歳。

老齢を押して奮闘する
矍鑠(かくしゃく)としていた
彼の死は突然の出来事で、
驚きを隠せない新聞各社は
“巨星墜つ”という見出しで
報じました。

「治五郎」の急逝により、
オリンピック参加への精神的支柱と
参加にかける情熱は失速。

第二次世界大戦に向かって
軍靴の音が鳴り響く中、
“平和の祭典”である
東京オリンピック大会は返上され、
“幻の東京オリンピック大会”
となりました。

このことをもっとも
残念に感じているのは、
東京招致に奮闘した
「治五郎」本人であることは
いうまでもありません。

人の何倍も学び、
人の何倍も働き、
人の何倍も考えた
「治五郎」の人生は、私たちが
どんなに頑張っても届かないほど
厚みのある充実した人生です。

ただ、その陰には必ず、
それを上回るたゆまぬ努力があり、
それは、歯を食いしばりながら
未知なる道を
拓き続けたことによるもの。

神戸御影の海沿いの町で
生まれ育った頃から続く、
勤勉さや深い興味、じっちょくさ、
負けん気は、歳を重ねても
変わることはありませんでした。

それは、彼が歩み続けた
苦難の長い道のりが証明しています。

※参考文献
全建ジャーナル2020.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第14話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.3月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第15話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第16話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑨
オリンピック初参加の後、大学昇格に向けた闘い。

嘉納治五郎師範ストックホルムオリンピック開会式1912年_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 ストックホルムオリンピック 開会式 1912年
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

オリンピックへの初参加は、
「治五郎」がいたからこその快挙。

世界オリンピック大会の提唱者である
フランスのクーベルタン男爵が、
日本をオリンピックに
招致するために、
駐日フランス大使を通じて
連絡をとったのが、
他ならぬ「治五郎」でした。

これは当時、
日本の近代スポーツの道を
率先して拓いていた
第一人者である彼だからこその、
当然の選択。

すでに世界に広まり始めていた
“柔道”の講道館創設者で、
優秀な卒業生を輩出する
東京高等師範学校の校長を
長年にわたって牽引してきた
“教育者”ということも、
適任者として申し分のない経歴と
判断したようです。

クーベルタン男爵からの
強い懇望もあり、
1909年(明治42年)に
東洋初のIOC
(国際オリンピック委員会)
委員に就任します。

それは第4回の
ロンドンオリンピックが
開催された翌年のことでした。

IOC委員になった
「治五郎」の最初の課題は、
オリンピックへの初参加です。

そのためには、日本国内に
オリンピック委員会を創設して、
代表選手の選考を
行う必要があります。

さらに、1912年(明治45年)の
第5回ストックホルム大会の
開催国であるスウェーデンから
参加要請があったことで、
急を要する事態に急転。

日本の選手を送るためには、
選手を決める選考母体が必要ですが、
文部省は興味を示さず、
日本体育会の協力も
得られませんでした。

そこで、賛同を得た
いくつかの大学とともに新しく
「大日本体育協会」を立ち上げ、
この体協が大学各校に呼び掛けて、
1911年(明治44年)日本初となる
オリンピック予選会を開催。

そこで、初の日本代表選手となる
短距離走の三島弥彦とマラソンの
金栗四三(かなくりしそう)
の2名が選出されました。

オリンピック参加を前に、
「治五郎」が彼らに伝えたのは、
“日本を代表する紳士たれ”
ということです。

講道館柔道の創始者として、
ことのほか礼節を重んじた
彼らしい激励の言葉でした。

マラソン競技に参加した
金栗四三は、現役引退後、
日本のマラソン界の発展に
大きく関わり、
箱根駅伝の開催に
尽力するなど、
後に“日本マラソンの父”と
称されました。

そして、彼の実直な
人物像を浮き彫りした
NHKの大河ドラマ「いだてん」では、
東京高等師範学校で教えを受けた
「治五郎」の背中を追うように、
礼節を重んじ、
勤勉であり続けた生き様が描かれ、
「治五郎」も
ドラマの重要な役割で登場します。

また、オリンピック参加当時に
日射病により途中棄権した
金栗四三は、
1967年(昭和42年)の
ストックホルムオリンピック
開催55周年式典に招待され、
会場に設けられた
ゴールテープを切るという
演出で迎えられました。

会場には、
“日本の金栗選手、
54年8カ月6日5時間32分20秒3で
ゴールイン。
これをもって第5回
ストックホルムオリンピック大会
の全日程を終了しました”
という粋なアナウンスが流れ、
ゴールイン後の金栗四三の
“長い道のりでした。
この間に、孫が5人できました”
という洒落たスピーチは、
会場中の大きな拍手を誘いました。

 

嘉納 治五郎 師範高等師範学校校庭で柔道を指導_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 高等師範学校校庭で柔道を指導する。
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

師範大学昇格は、
約10年にもおよぶ闘いの連続。

第5回
ストックホルムオリンピック
への日本の初参加も
無事終わりました。

安堵のため息をつく暇もなく、
兼ねてから課題となっていた
東京高等師範学校の師範大学昇格
に取り組むことに。

というのも、東京高等師範学校は
高等教育機関(旧制の専門学校)
とみなされ、
大学の“格”ではなかったからです。

日本教育界の“総本山”
と呼ばれるにまで成長し、
東京帝国大学に何ひとつ
劣るところがないと
自負はしていたものの、
大学昇格には、
なかなか一筋縄ではいかない
高い壁がそびえ立っていました。

教育諮問会議の場や、
政府首脳、文部大臣経験者などに
直接面会して訴えるものの、
東京帝国大学中心主義の
役人や大学関係者に
その主張を遮られるばかり。

その積年の思いがかなったのは、
「治五郎」が
定年によって勇退した後の
1923年(大正12年)
のことでした。

その発端は、東京高工
(現在の東京工業大学)、
神戸高商(現在の神戸大学)
が大学昇格に向けて
声をあげたのと連動して、
東京、広島の両高等師範学校が
加わったことで、一挙に
問題解決へと大きく傾いたことです。

この年の9月、関東大震災により
1929年(昭和4年)度の昇格に
繰り延べされましたが、
10年間にもおよぶ闘いに、無事、
終止符が打たれる日が訪れました。

それまで考えることもなかった
オリンピックへの初参加で、
日本は近代国家として
新たな道が拓け始めました。

今では当たり前に
慣れ親しんでいるスポーツも、
「治五郎」が道なき道を開拓した
成果の賜物。

もし彼がいなかったら、
スポーツの発展は何十年も
遅れていたのかも知れません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.12月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第12話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.1月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第13話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第14話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑧
通算23年勤め上げた、重責の高等師範学校長職。

東京高等師範学校_菊正宗ネットショップブログ
東京高等師範学校
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

33歳で高等師範学校長に就任。
新しい時代の教員育成への舵取り。

せっかく、手塩にかけた
第五高等中学を辞めることは、
決して望まなかった…と、
「治五郎」は、
自著で追想しています。

しかし、その時、
文部省の教科書検定事業において、
その方針が外部に漏れる
という大問題が発生し、
文部省ではその火消しに
躍起になっている最中(さなか)。

行政官、教育者として清廉潔白な
彼に白羽の矢が立ったのは、
ある意味、当然の選択でした。

1893年(明治26年)、
東京に呼び戻された「治五郎」を
待ち受けていたのは、
文部省参事官としての激務。

それに折り重なるように、
第一高等中学校(現東京大学)校長、
高等師範学校
(東京教育大学を経て、現筑波大学)
校長の職を兼務することになり、
その傍らで“講道館”“嘉納塾”の
運営、指導を行っていました。

さすがに3つの要職の兼務は、
あまりにも過酷過ぎて長くは続かず、
ひとつに絞って
高等師範学校長の専任に。

この時「治五郎」は、
まだ33歳です。

「治五郎」の
高等師範学校長の足跡は、
時代ごとに第1次、第2次、第3次の
三度に分けられます。

ただ、
いつもその時代の学校改革を先駆け、
それを手本として
全国に広まって行った
ということがいえます。

2度の辞職を経て、
生涯を通じて23年間も
高等師範学校長の重責を勤め上げ、
国立唯一の高等師範教育機関で、
通算20年を超えて
校長職にあったのは、
後にも先にも「治五郎」だけでした。

第1次の校長職は
1893年(明治26年)から
1897年(明治30年)の4年間。

「治五郎」が校長になった頃の
高等師範学校は、
生徒数90人程度と規模が小さく、
教授の数や予算も貧弱そのもの。

当時、第一高等中学が
1000人もの生徒を
全国から受け入れていたのと
比較すると、その差は歴然でした。

それを変えるために、まずは
全国の優秀な中学校卒業生を
毎年受け入れ、
予算も文部省に直接掛け合って
大幅に増額、
教授陣の充実も急ぎました。

そのひとつが、
東京帝国大学大学院生で
秀才といわれた当時26歳の
“夏目金之助(後の夏目漱石)”を
嘱託の英語教師として招聘。

彼の採用は、
他の英語教師への良い刺激となり、
教育現場の空気は
一新したといいます。

政府が、
行政に関わるさまざまな事業を
縮小整理しようとする流れの中で、
まさに異例の快挙でした。

また、
政府方針を否定することを恐れずに、
軍隊式教育方針を排除する
大英断を敢行。

加えて、自由を重んじる
学生寮規則を制定するなど、
自由な教育環境の基礎を
築き始めました。

運動面では、西洋風の体育を導入。

日本の学校組織としては初となる
柔道部や陸上部などの運動会
(今のクラブ活動)を創設し、
学生はそのどれかに所属して
毎日30分以上は必ず運動することを
ルール化することで、
基礎体力づくりを奨励しました。

「治五郎」がめざしたのは、
欧州視察で見聞きした
深い見識が随所に生かされた、
近代日本を担う新しい教育制度です。

 

嘉納治五郎師範肖像明治27年ころ30代_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 肖像 明治27年頃(30代)
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

中央政界の余波を受け、
最初の頃は、辞職、再任を繰り返す。

高等師範学校の
新しい基礎を築いたにも関わらず、
混乱する中央政界の余波を受け、
教育理念を持たない
文部省次官と衝突しても
信念を曲げなかったため、
最初の校長職を辞職することに。

混迷する政局が絡み、
非職して3カ月後に復職したものの、
第2次の校長職も、半年余りで
再び辞職することに。

ところが、
第3次は意外にも早く訪れます。

文部官僚人事が
大きく変わったことが幸いして
1901年(明治34年)
再び校長職に就き、
1920年(大正9年)に
60歳で退職するまで、
19年にもおよぶ長い在職です。

校長初任時に
僅かだった在校生徒数も、
「治五郎」の定年退職時には
724人と、大きく増えていました。

3度目の長い校長職就任期間には、
修業年限を3年から4年に広げ、
文科と理科だった学部に
体育科を設置するとともに、
それぞれの本科の上に、
専攻科や研究科(今でいう大学院)
を設けました。

当時のトップであった
東京帝国大学並みの
最高学府に育てることを目標に
取り組んだといいます。

もちろん、優秀な教授の充実にも
力を注ぎました。

僅か100人前後の生徒たちを
指導するために、前述の
夏目金之助(夏目漱石)を始め、
当時、それぞれの分野で高名な
錚々たる面々を招致した
「治五郎」の手腕には
舌を巻くばかりです。

重責の校長職にあって、
毎日曜日の早朝、
“嘉納塾”塾生への処身法講義や
“講道館”館員への柔道講義を
欠かすことはありませんでした。

教育に真っ向から向き合い、
一点の曇もない
彼の教育にかける思いは、
“教育の父”と称されることからも
計り知ることができます。

※参考文献
全建ジャーナル2019.9月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第9話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.10月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第10話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.11月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第11話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.12月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第12話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓