10月16日は「世界食糧デー」。世界視野で食糧の課題を考える日です。

世界の飢餓問題は深刻。新しい技術革新が未来の食を担う鍵となります。

毎年10月16日は「世界食糧デー」です。

1945年10月16日に
国際連合食糧農業機関(FAO)が
設立された日を記念して、
1981年に制定されました。

この日は、世界的な食糧問題についての
意識を高め、飢餓や栄養不足に
対する取り組みを促進することを
目的としています。

日本は、江戸時代や第二次世界大戦中
そして戦後に深刻な
食糧難を経験しました。

戦時中は農業生産の減少や
インフラの破壊、
輸入食料の途絶が原因で、
多くの都市部で栄養不足が
深刻化しました。

1948年以降、徐々に農業生産が回復し、
政府の土地改革や農地の
再分配によって農民の
生産意欲が高まりました。

1950年代に入ると戦争の傷も癒え、
日本経済が急速に復興、
産業が発展し始めます。

大きな転機となったのは、
1955年頃に米の生産量が
安定したことです。

これをきっかけに食糧難が
大幅に改善されました。

それから70年が経ち、
飢餓から脱却した日本が
今直面しているのは、食料の過剰生産と
フードロス問題です。

この課題を解決することは、
世界の食糧不安を軽減する
一助となるでしょう。

世界でもトップクラスの
食の安全性を誇る日本では、
消費期限や賞味期限が
早めに設定されています。

その結果、毎年約600万トンもの食品が
廃棄されているとの報告もあります。

日本で毎年600万トンもの食品が
廃棄されている一方で、
飢餓に苦しむ国々が多く存在します。

農家の安定収入を確保するため、
収穫過剰な農産物が
廃棄されることもありますが、
私たちはフードロスを減らし、
必要な場所に食料を届ける方法を
模索する必要があります。

一方、世界の飢餓問題は深刻です。

とくにアフリカやアジアの
一部地域では、干ばつや洪水などの
極端な気象条件が農業生産に
大きな影響を与える気候変動が
大きな問題といえます。

このほか、内戦や紛争、
貧困などによって引き起こされる
飢餓の現実は想像を絶します。

国連世界食糧計画(WFP)などが
緊急食糧支援を行うだけでなく、
長期的な農業改革が必要です。

たとえば、
“コンポスト
(土壌改良のための有機肥料)”を
使って土壌を改良したり、
干ばつに強い作物を育てることは
将来的な農業の持続可能性を
高める重要な技術です。

また、森林保護と農業を融合させる
“アグロフォレストリー
(森林農業)”という考え方も
注目されています。

森林を守りながら持続可能な農業を
めざす新たなアプローチです。

さらに、シンプルで安価な
灌漑システムの導入や
雨水の有効活用により、
水不足地域での作物栽培を
可能にする技術も発展しています。

このほか、農産物の流通改善や
フェアトレードによる生産者の
生活を安定する取り組み、
モバイルやドローン技術を活用した
遠隔による農業専門家の
最新情報による指導など、
これまで諦めかけていた
飢餓に苦しむ地域での
農業も科学的な視点で
取り組めるようになりました。

世界的な飢餓を解決するための道筋は
今、確かに見え始めています。

私たち一人ひとりが、
食料の無駄を減らし、
必要な場所に届けるという
意識を持つことが、
未来の飢餓問題を解決する一歩です。

私たちの日々の行動が
未来を変える鍵といえます。

10月10日は「銭湯の日」。秋の気配を感じたら、お風呂屋さんに行こう。

昔から、銭湯はコミュニケーションの場。“銭湯で整える”が新しいトレンドです。

10月10日は「銭湯の日」です。

1991年(平成3年)、
全国浴場組合連合会が
銭湯文化の普及をめざし、
銭湯を
より多くの人に親しんでもらおうと
制定しました。

この日が「銭湯の日」となったのは、
“1010(せんとう)”
という語呂合わせからです。

また、1964年(昭和39年)の
東京オリンピックの開会式が行われた
10月10日が「体育の日」と
定められたことにも由来しています。

このオリンピックをきっかけに、
日本ではスポーツが奨励され、
スポーツで汗を流した後に
銭湯でさっぱりと
リフレッシュするという意味が
込められた日でもあります。

日本の入浴文化のルーツは、
奈良時代の仏教伝来にまで遡ります。

仏教寺院の湯屋(ゆや)は、
心身ともに清めるための場として
使われていました。

現在の銭湯に近い公衆浴場が
庶民に広まったのは江戸時代です。

江戸の急激な人口増加と、
火災リスクを回避するために、
密集する木造家屋では
個人の風呂を持つことが
難しかったため、
公衆浴場が誕生しました。

ここは、
体を清潔に保つ場所だけでなく、
社交場としての役割も
果たしていました。

江戸初期には
男女混浴が一般的でしたが、
江戸後期には
道徳的な考えから混浴が規制され、
男女別の浴場へと変わっていきます。

知らない者同士が
裸でお湯に浸かるという
独特の銭湯文化はこの頃に確立され、
現代にも引き継がれています。

ちなみに、武士にとって刀は
片時もその身から放さない
大切なものでしたが、
“風呂には刀を持ち込まない”
という暗黙のルールがあり、
武士といえども風呂に入る時だけは、
番台に刀を預けたとのことです。

戦後の復興期には、住宅事情も悪く、
多くの人々にとって銭湯は
生活に欠かせない施設でした。

しかし、1970年代に入ると
住宅に浴室が備えられるようになり、
トイレと風呂が一体化した
ユニットバスの登場により、
銭湯の需要は一気に減少。

最盛期には
約25,000軒もあった銭湯は、
現在2,000軒ほどに減少しています。

一方で、最近では
訪日外国人観光客の間で
銭湯が再び注目を集めています。

日本観光の定番ともいえる
人気の東京や京都、大阪の混雑を
避ける観光スポットとして
密かに注目され始めたのが
全国各地の温泉です。

昔は、
知らない人と裸で入るお風呂に
抵抗のあった外国人も、
日本文化に好意を持ち、
そのひとつの温泉に挑戦。

湯船に浸かるリラックス効果や
露天風呂の開放感など、
その癒し体験の虜に
なっていきました。

その感動をSNSを通じて
発信し始めたことから
日本の温泉が話題になり、
その影響で、都会で
温泉のような感動体験ができる銭湯に
注目が集まり始めているようです。

また、
SNSに敏感な日本の若者の間でも
銭湯通いが新たなトレンドとして
加わりました。

サウナブームに続いて、
銭湯でのリラックス体験が注目され、
銭湯文化が新たな世代にも
受け継がれようとしています。

長い歴史を持つ銭湯文化は、
現代にもその価値を保ち続け、
未来へと継承されていくことに
なりそうです。

15年振りのエチゼンクラゲの大量発生。心配されるカニ漁への影響。

過去のエチゼンクラゲ大量発生による被害総額は、100億円にも。

11月6日の松葉ガニ解禁日が
近づく中、日本海沿岸では
思わぬ異変が発生しています。

その異変とは、
能登半島西沿岸から兵庫、
鳥取にかけて、日本海沖で
エチゼンクラゲが大量に
発生していることです。

エチゼンクラゲの大量発生は、
15年前の2009年(平成21年)にも
報じられ、その際は
漁獲量の減少や漁網の修理費用が
100億円に達するなど、
大きな被害をもたらしました。

エチゼンクラゲは最大級のクラゲで、
傘の直径が2mを超えることもあり、
その重さは約200kgにも達します。

大量発生時には、
直径1mほどのクラゲが海面近くに
大量に浮かんでいる姿が頻繁に
目撃されることも少なくありません。

今年の8月中旬以降、
鳥取県などの日本海沿岸での漁業に
深刻な影響が出ており、
小型漁船の操業では、
クラゲの重みで網が破れたり、
漁獲された魚が傷んで
商品価値が下がるなどの
問題が発生しています。

そのため、漁師たちは
出漁を控えるケースが
増えていました。

この事態を打開するために、
鳥取県漁協は9月半ばから漁を休み、
クラゲの駆除作業を開始。

駆除方法は2隻の船で網を引き、
そこにかかったクラゲを
水圧で粉砕するというものです。

この作業は1日8時間もかかり、
水揚げができない日が続くため、
漁師たちにとっては
大きな打撃となっています。

とくに、11月に解禁される
松葉ガニ漁への大きな影響が
懸念されるところです。

クラゲが深海に移動し、
カニ漁の網に大量にかかると、
その重さで漁網が破損したり、
漁師たちがクラゲを取り除くための
時間や労力が増え、
漁の効率が著しく低下します。

また、クラゲの触手に絡んだ
カニが傷ついたり、
死んだりすることで、
漁獲されたカニの品質が下がり、
商品価値が下がるのも
大きな打撃です。

カニ漁師たちにとっては
依然として大きな課題が
残されています。

エチゼンクラゲが
大量発生する原因としては、
いくつかの要因が考えられます。

まず、
温暖化による海水温の上昇が
クラゲの繁殖を
活発化させていることです。

これにより、
クラゲの生息範囲が広がり、
発生頻度も増加していると
考えられています。

また、
クラゲが生まれる中国沿岸部での
農業や都市からの栄養塩
(窒素やリン)の排出が増加し、
それがクラゲの餌となる
プランクトンの増加をもたらします。

さらに、過剰漁業により
エチゼンクラゲの幼生を
捕食する魚が減少し、
天敵が少なくなることで、
クラゲの生存率が上がるのも
一因です。

さらに、海洋では、
デッドゾーンと呼ばれる
低酸素状態のエリアが一部で拡大。

こうした環境に適応する
クラゲが他の生物に競り勝つ状況が
増えているという訳です。

今年のカニ漁の成否は、
エチゼンクラゲの数がどれだけ
抑えられるかにかかっています。

今後の海水温の低下と
効果的なクラゲ駆除対策が、
カニの豊漁を左右する
重要な鍵となります。

漁師たちにとって、
エチゼンクラゲとの戦いは、
まだ序章に過ぎません。

丹波栗をはじめ、丹波産の黒豆や松茸、猪肉のぼたん鍋など、旨さは格別

丹波国が成立した平安初期から、農業、経済、軍事の要衝地として栄えた丹波地方。

丹波地方は、兵庫県北東部から
京都府中部にかけて広がる山間部で、
秋の味覚が豊富な
地域として知られています。

兵庫県丹波篠山市と丹波市、
京都府福知山市、綾部市、亀岡市、
南丹市が丹波地方の
秋の美味しさを担っています。

この地の歴史はとても古く、
7世紀後半の律令制が施行された
時期に設置された
“丹波国(たんばのくに)”
にまで遡ります。

丹波国は平安京に近く、米や農産物、
木材などの物資を供給する
要衝地として栄えました。

とくに、丹波栗や
陶器の丹波焼といった特産品は
朝廷にも重宝され、
経済的側面からも豊かな地域として
発展しました。

ここ丹波国には、
山陰道という古代の重要な
街道が通っており、
畿内(京都を含む地域)と
山陰地方を結ぶ交通の
要所としても有名です。

物資や人の往来が盛んで商業が発展し、
平安京との交易や物資の流通が
スムーズに行える立地は、
山間部でありながらも
栄える要因となりました。

また、山に囲まれた地形は
外敵からの攻撃を防ぎやすく、
戦略的にも有利な場所でもありました。

そのため、戦国時代には
多くの城が築かれ、
丹波国は複数の戦国大名が争う
重要な戦場となっていきます。

織田信長が丹波を制圧した際には、
明智光秀がこの地域を治め、
軍事的な重要拠点に
位置付けられた場所です。

また、広範囲に広がる丹波盆地には、
由良川や加古川などの河川が流れ、
これらの川沿いには肥沃な土地が広がり、
農業が盛んな地域です。

夏は暑く、冬は寒い盆地特有の気候は、
稲作や農作物の
栽培に適していることもあり、
さまざまな特産品が季節ごとに
流通する一大生産地でもあります。

平安時代初期の朝廷への
献上品から数えると
千数百年にもわたって
親しまれてきた丹波ブランド。

その信頼は、現在も変わることなく
続いています。

もちろん長い歴史の中で、
農産物や特産品の品種改良などを重ね、
より美味しくなっているのは、
紛れもない事実。

季節ごとの味覚が多くの人を
楽しませていますが、
とりわけ秋の味覚はとくに有名です。

秋の味覚の代表格ともいえる丹波栗は、
一般的な栗よりも大粒肉厚で、
甘みが強く、風味が豊かで
ホクホクとした食感が魅力。

そのまま蒸して素材そのものを
味わうのがおすすめの食べ方です。

丹波黒豆は、大粒で甘みがあり、
濃厚な味わいが特徴で、栄養価も高く、
食物繊維やポリフェノールが
豊富な美容食ともいわれます。

また、秋の味覚の王者ともいえる
松茸も丹波ブランドのひとつ。

松茸の特徴ともいえる香りが豊かで、
焼いた時の風味の豊かさは格別です。

風味豊かな出汁が楽しめる
松茸の土瓶蒸しはもちろん、
網で焼いた後、すだちを軽く絞って
醤油につけるシンプルな
食べ方がおすすめです。

少しシーズンには早いですが、
味噌をベースにした
濃厚なスープで煮込んだイノシシの
ぼたん鍋も丹波地方ならではの美味しさ。

土地で採れた季節野菜を一緒に
煮込んだ旨さは絶品です。

この秋の丹波ブランドの味覚を、
ぜひお楽しみください。

生酛特有の押し味のある                               「生酛ひやおろし」は、
この時期にしか味わえない                              季節限定商品です。

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彼岸の名を冠した繊細できれいな“彼岸花”ですが、忌み嫌われる花。

彼岸を意味するサンスクリット語の“パーラミタ”は、お経の“波羅蜜多”に。

間もなく秋のお彼岸です。

太陽が天体の赤道を北から南へと
横切る秋分点を通過する“秋分”を
基準にして、前後3日間ずつ
合計7日間がお彼岸の期間です。

今年は9月19日から25日までとなり、
初日を“彼岸入り”、最終日を
“彼岸明け”、祝日でもある22日の
“秋分”は中日(ちゅうにち/なかび)
と呼ばれています。

太陽が真東から昇り、
真西に沈む“秋分”は
昼と夜の長さがほぼ同じになり、
仏教の教えでは、
物事のバランスが取れた時期です。

西方に極楽浄土があると信じられ、
太陽が真西に沈むこの時期は、
ご先祖様のいる極楽浄土を
“彼岸(ひがん)”、
私たちが生きている現世を
“此岸(しがん)”がもっとも
通じやすくなると考えられています。

また、“秋分”の前後3日間が
設定されている理由は、
仏教の「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」の
教えに由来。

六波羅蜜は、
悟りに至るための6つの徳目
(布施、持戒、忍辱、精進、
禅定、智慧)を実践することで、
煩悩を乗り越え、
彼岸に到達するという教えです。

秋分の日を中日とし、
その前後3日間は、
この六波羅蜜の教えを実践し、
煩悩を超えて心を清める
期間として定められています。

古来、農業国立国であった日本には、
農作物を育てる太陽の恵みと
祖先への感謝とを表した
太陽信仰がありました。

この信仰を“日願(ひがん)”と
呼んでいたことと仏教の教えが
結びついて
“彼岸”という言葉が生まれました。

また、“彼岸”はサンスクリット語の
“paramita(パーラミタ)”で、
その音の響きから、
日本語で“波羅蜜多(はらみた)”
と表記され、般若心経などに
この言葉が残されています。

お彼岸の時期に姿を見せるのが、
その名前を冠した彼岸花で、
華やかで繊細な花びらが印象的です。

別名の曼珠沙華
(まんじゅしゃげ/まんじゅしゃか)は、
サンスクリット語で
“赤い花”を意味する
“manjusaka(マンジュシャカ)”が
由来とされています。

しかし、この彼岸花が仏壇に
供えられることはあまりありません。

お墓周辺に群生し、
まっすぐに伸びた緑の茎の先に
咲く花の姿は、
まるで死者が空に向かって
手を伸ばすかのような形状です。

真っ赤な花の色は血の色ともいわれ、
死を連想させる
縁起の悪い花と忌み嫌われています。

かつて土葬が行われていた時代に
野生の獣に墓を荒らさせないために、
根に毒がある彼岸花を
墓の周りにたくさん植えたことが、
かえって悪いイメージに
つながったようです。

“死人花”“幽霊花”“地獄花”
などの別名もあり、
毒性を持つことから子供がむやみに
花に近づかない戒めの
意味もあるといいます。

彼岸花の球根に含まれている
アルカロイドという成分は、
吐き下しなどの作用がありますが、
球根を潰して水によくさらせば
毒性は抜けるとのこと。

人家の近くに群生しているのは、
かつて飢饉用の非常食や
薬として植えられ、
活用されてきた名残ではないかとも
いわれています。

今年は彼岸花をぜひ身近で観察して、
先祖に感謝の気持ちを
向けてみてはいかがですか。