2021年の「土用の丑の日」は、7月28日。ウナギがちょっとお安くなってます。

昨年の“シラスウナギ”豊漁がもたらしてくれた恩恵。

今年の「土用の丑の日」は、
7月28日(水)。

ウナギの蒲焼が
店頭に並ぶ時期となりました。

あの照り色と香ばしい匂いが、
より一層、食欲をそそります。

本来の天然ウナギの旬は、
秋から冬にかけて
水が冷たくなりはじめる頃で、
一番脂がのる時期とされています。

現在、市場に出回っている
ウナギの約99%以上は養殖もので、
天然うなぎは、わずか1%未満。

養殖ウナギは、
1年でもっとも需要が高まる
「土用の丑の日」をピーク
として育てているため、
養殖ウナギの旬は
6月から8月とのこと。

とはいえ、徹底した温度管理による
ビニールハウスの安定した環境で
育てられているので、
季節による味の違いは
さほど感じることはないようです。

ウナギ養殖においての
人工孵化は難しく、
現在は太平洋を回遊した後、
河川を遡上する天然の
“シラスウナギ(稚魚)”を捕獲し、
成長させて出荷する
“半天然・半養殖”という
養殖方法をとっています。

静岡県磐田市の天竜川河口_シラスウナギ漁

この養殖種苗となる
“シラスウナギ”の漁獲量は、
1970年代を境に大きく減少。

ピーク時に
200トンを越えていたものが、
2019年度は約3.7トン(水産庁算出)
にまで落ち込み、
このまま不漁続きとなると、
「土用の丑の日」にウナギを食べる
習慣そのものがなくなると
懸念されていました。

しかし、
昨年の2020年(令和2年)は、
池入数量20.1トン
(輸入3.0トン含む)と、
久しぶりの豊漁を記録。

2021年(令和3年)は
前年よりは減ったものの、
池入数量18.3トン
(輸入7.0トン含む)と、
直近5漁期の平均的な
池入数量に届いたとのことで、
とりあえずは、ひと安心。

ここでいう池入数量とは、
絶滅危惧種に区分された
ニホンウナギ資源の
管理・保護への配慮から、
文字通り、年度ごとに
“養殖池に入れる
ウナギの稚魚の数量に
上限を設ける”
という取り組みです。

具体的には、
2015年(平成27年)に
日本国内全体の池入上限総量を
21.7トンに定めました。

つまり、ウナギ養殖業者は
農林水産大臣の許可が必要で、
この許可を得ている
国内すべてのウナギ養殖業者に
池入上限数量を配分した合計が
池入上限総量の21.7トンに
設定されているということです。

ただし、ここで大切なのは、
シラスウナギの池入数量と
出荷量の関係性。

ウナギの養殖方法は、
早い時期(11月~翌1月末)に
池入れしたシラスウナギを
半年間育成して出荷する
“単年養殖”と、
遅い時期(2月~4月)に
池入れしたシラスウナギを
1年以上かけて育成して出荷する
“周年養殖”に大別されます。

「土用の丑の日」に店頭に並ぶ
ほとんどのウナギが
前年に池入された
“周年養殖”ウナギなので、
前年の豊漁を受けて、
昨年よりも安く取引されているため、
今年はちょっとお安く
ウナギを堪能できそうです。

「土用の丑の日」以外の、「土用」にまつわる歳時もあります。

ウナギをはじめとする
“う”のつく食べ物を食べて
暑気を払い、
滋養をつけるのは
「土用の“丑”の日」ですが、
期間としての
今年の夏の「土用」は、
7月19日(月)から8月6日(金)。

昔から“虫干し”とも呼ばれる
「土用干し」が、
夏の行事として、
この「土用」期間に
行われてきました。

これは、梅雨が明ける
夏の土用の頃に
衣服や書物を取り出して
風を通すことで、
梅雨の湿気によって
カビや虫が発生するのを防ぐための
生活の知恵ともいえます。

この行事の歴史は古く、
平安時代に正倉院の収蔵品を
「土用干し」していた
という記録も残されています。

エアコンや除湿機が
多くの家庭に行き渡り
快適な住環境が整った昨今、
こうした行事は
徐々に廃れつつあります。

また、夏の「土用」の時期に
1週間ほど田んぼの水を抜いて、
田の「土用干し」を行います。

この作業によって田んぼの土を
“中干し(ヒビが入るほど
完全には乾かさない)”にし、
稲の茎の根元から新しい茎が出てくる
“分げつ”を抑え、
それまで青く育った稲が
しっかりと根を張ることを促します。

農家にとっては、秋の豊作に向けた
大切な習慣のひとつとされています。

ところが、土の“気”を持つ
「土用」の期間に、
土に触ったり、
土を動かしたりすることは、
禁忌とされてきました。

とくに昔は、種を蒔いたり、
井戸を掘ったり、壁を塗ったり、
土葬が中心だった時代には
葬式もご法度。

そこで生まれたのが
「土用の間日(まび)」
という風習です。

夏の「土用」では、
“卯”“辰”“申”が
この「間日」にあたり、
「土用の間日」だけは、
文殊菩薩の取り計らいで、
土を動かしても良い日
とされたといいます。

ちなみに、今年の夏の
「土用の間日」は、
7月19日(辰)、
23日(申)、
30日(卯)、
31日(辰)、
8月4日(申)。

土いじりなどをする場合は、
この「土用の間日」にすることを
おすすめします。

以前のコラムでご紹介しましたが、
ウナギと、口の脂分を
ウォッシュ効果で洗い流してくれる
「樽酒」の相性は抜群。

外出もままならない今年の夏は、
ウナギと「樽酒」で、
五輪観戦といきましょうか。

2021年夏、今なら暑中見舞いと残暑見舞いどちら。

夏のお便り「かもめ〜る」は、昨年、ひっそりとサービスを終了。

長年親しまれて来た
暑中見舞い用のくじ付きはがき
「かもめ〜る」が、
昨年の2020年を最後に、
その歴史にひっそりと
幕を下ろしました。

「かもめ〜る」は、
1950年(昭和25年)に
販売を開始した
“暑中見舞い用郵便はがき”
がそのルーツです。

1950年(昭和25年)の年始用
“お年玉付き年賀はがき”に続く、
郵政の新しいサービスとして
登場しました。

“お年玉付き年賀はがき”の
サービス開始時の
発行枚数は1億8000万枚。

1964年(昭和39年)
には10億枚、
1973年(昭和48年)
には20億枚と、
経済成長や人口増加とともに
発行枚数は増え、そのピークは
2003年(平成15年)に
44億5936万枚を数えました。

もともと年始挨拶の文書を
飛脚などで送る習慣は
江戸時代からあり、
明治になって郵便制度が確立し、
1873年(明治6年)に
郵便はがきが発行されて以降、
郵便はがきで年賀状を送る習慣が
急速に広まりました。

1887年(明治20年)頃には、
年賀状を出すことが
年末年始の行事のひとつとして定着。

その習慣を背景に、
相手に幸運を届けることになる
“お年玉付き年賀はがき”が
受け入れられるのは
当然のことといえるでしょう。

こうした
“お年玉付き年賀はがき”の
安定した販売実績を参考に、
1986年(昭和61年)から
スタートしたのが、
くじ付きはがき「かもめ〜る」です。

発売枚数は、
1993年(平成5年)の
3億4000万枚をピークに
下降を始め、
2008年(平成20年)に
2億1530万枚と、
一旦底を打ちます。

その翌年の
2009年(平成21年)、
「かもめ〜る」をDMとして使う
“かもめタウン”
というサービスを開始。

顧客リストなしに、
町や丁目などにより
地域指定することで、
“〇〇町にお住いのみなさまへ”
と銘打った「かもめ〜る」が
〇〇町全戸へ配布される仕組みで、
2015年(平成27年)は
2億7138万枚、
2016年(平成28年)は
2億7246万枚まで回復しますが、
“お年玉付き年賀はがき”と
比較すると、
その数は1/20にも満たない
発行枚数。

「かもめ〜る」の最後となった
2020年(令和2年)の発行枚数は
1億4005万枚となりました。

 

暑中見舞いと残暑見舞いの境目は?

“かもめ〜る”は
廃止となりましたが、
2021年(令和3年)は
暑中見舞いや残暑見舞いとして使える
「絵入りはがき」が登場。

表の宛名面の料金表示個所に
ジンベイザメ、
裏の通信面には
青空とひまわりが描かれ、
夏のメッセージには
最適の図柄となっています。

さて、悩ましいのは
暑中見舞いと残暑見舞いを
出すタイミング。

その境目となるのは
二十四節気の“立秋”です。

2021年(令和3年)の暦によると
、次の区分けとなり、
厳密には、その期間内に
相手に届くように送ります。

●暑中見舞い…“小暑(7月6日火曜日)”から“立秋の前日(8月6日土曜日)”。
※地域によっては雑節の“土用(7月28日水曜日)”が起点。
●残暑見舞い…“立秋(8月7日日曜日)”から8月末頃までに届くように送付。
※残暑が厳しい年は、9月初旬の送付も可能。

というのが、
一般的なマナーとされています。
また、最近多いのが、
お中元代わりに“夏ギフト”を贈り、
それが暑中見舞いや残暑見舞いを
兼ねるケースです。

この場合、
のし紙の表書きに「暑中御見舞」、
目上の人に贈る際は、
「暑中御伺」と書きます。

菊正宗でも、
暑中見舞いや残暑見舞いを兼ねた
“夏ギフト”のご注文が
年を追うごとに増えていますので、
夏のご挨拶に
是非ご利用くださいませ。

さて、
“お年玉付き年賀はがき”とて、
電子メールやSNSの普及によって、
2021年(令和3年)の
発行枚数は19億4198万枚と、
ピーク時の半分以下の時代。

この先、コミュニケーション手法が
大きく変わるのは必至ですが、せめて
“はがきによって
文字で挨拶を送る文化”
は残しておきたいものですね。

嘉納治五郎物語⑩
老いてなお、精力的に。
治五郎は79年を駆け抜けました。

嘉納治五郎師範ベルリンオリンピックへ向かうブレーメン号にて(1936)_菊正宗ネットショップブログ
ベルリンオリンピックへ向かうブレーメン号にて(1936)右から嘉納 治五郎 師範、チージンバイン船長、ガーランドアメリカIOC委員
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

関東大震災の復興のために、
オリンピック大会への参加で士気を鼓舞。

1923年(大正12年)9月1日、
巨大地震が首都圏を中心に発生。

関東大震災です。

地震発生直後に各地で火の手が上がり
、首都圏は、死者・行方不明者は
10万5000人ともいわれる
未曾有の大災害に見舞われました。

震災時、「治五郎」は樺太に出張中で
、“柔道”の講演や実技指導を
行ってるところでしたが、
急いで帰京。

すぐに、講道館を開放して
震災被災者の受け入れを開始し、
その数は延1000人を
数えたといいます。

復興がままならない状態で、
関東大震災の翌年の
第8回パリオリンピック大会
への参加を見送ることも
検討されましたが、
大日本体育協会は、
“大震災の復興に向けて、
国民の士気を鼓舞するために、
もっとも質素に
選手選考大会を開催して
代表選手を選び、
第8回パリオリンピック大会に
選手を派遣する”と決定。

“それまで積み上げてきた
スポーツ界の進歩を
止めるべきではなく、
海外に日本国民の
復興への意気込みを示す”
という、「治五郎」の主張が
受け入れられることとなりました。

また、この関東大震災に前後して、
講演、実技指導などによる
“柔道”の普及活動をはじめ、
女子教育の一環となる
“女子柔道部”を講道館に開設、
柔道理念を明確にした
“講道館文化会”の創設、
IOC(国際オリンピック委員会)
委員に就任して以降、
国際会議への参加や
オリンピック大会の視察など、
還暦を過ぎた人物とは思えないほど、
精力的に世界を駆け回りました。

とくに、第一次世界大戦で
壊滅的な被害を受けた
ベルギーの復興をめざした
第12回アントワープ
オリンピック大会では、
ヨーロッパ各国の政治経済状況や
混乱ぶりをつぶさに視察、
求めに応じて
“柔道”の講演や実演も実施。

“柔道”の基礎となる精神を
世界に伝えるために、
“精力の最善活用によって
自己を完成し(個人の原理)、
個人の完成が直ちに他の完成を助け、
自他一体となって共栄する
自他共栄(社会の原理)によって、
人類の幸福を求める”を意味する
「精力善用 自他共栄」を
という言葉を大きく発信して、
その理念を説いていきました。

そして、この
「精力善用 自他共栄」
を校是とする旧制灘中学
(現在の灘中・高等学校)を、
生まれ故郷の神戸に開校するために、
酒造両嘉納家や地元富豪の
篤志を受けた資金確保、
教職員の人材確保に奔走し、
1927年(昭和2年)に開校。

現在も、
「治五郎」の精神を受け継いだ
自由闊達な校風でありながら、
トップクラスの進学校として
名を馳せています。

 

嘉納治五郎師範氷川丸_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 氷川丸にて
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

東京オリンピック成功に向けた外遊中に
…巨星、墜つ。

関東大震災の復興と
帝都東京の繁栄を
国内外にアピールする狙いで、
1940年(昭和15年)に
開催される第12回
オリンピック大会を
東京に招致することを、
時の東京市長
(現在の東京都知事)らが提案。

第5回から参加して以降、
メダルを獲得するにまでなり、
「日本書紀」に基づく
日本建国2600年(皇紀)にあたる
記念すべき年ということもあり、
“東洋初のオリンピックを東京で”
という動きが起こりました。

その背景には、前年の
世界大恐慌の余波による
日本経済の大打撃を
払拭する目的も含んでいます。

波乱含みであった国内での問題も
なんとか解決し、
1932年(昭和7年)に、東京市長名で
オリンピック招請状をIOC
(国際オリンピック委員会)に提出。

1935年(昭和10年)の
IOCオスロ総会にて
開催地が決定する
という返事が返ってきました。

「治五郎」は
1933年(昭和8年)に開催された
ウィーンでのIOC総会に出席して
東京招致を主張し、
その後のIOCカイロ総会では、
東京招致に反対する
イギリスを中心とした
英連邦諸国の応酬に対して、
ひるむことなく、
堪能な英語を駆使して反論し、
主張を曲げることは
ありませんでした。

その甲斐あって
1937年(昭和12年)、
東京オリンピック大会の招致が
決まりました。

IOCカイロ総会後に、
前年に死去した
クーベルタン男爵の埋葬式に参列。

さらに日本支持の感謝を伝えるべく
アメリカに渡った後、
カナダのバンクーバー発の
大型客船での帰路、
風邪に肺炎を併発した
「治五郎」は帰らぬ人に。

1938年(昭和13年)
5月4日逝去、享年79歳。

老齢を押して奮闘する
矍鑠(かくしゃく)としていた
彼の死は突然の出来事で、
驚きを隠せない新聞各社は
“巨星墜つ”という見出しで
報じました。

「治五郎」の急逝により、
オリンピック参加への精神的支柱と
参加にかける情熱は失速。

第二次世界大戦に向かって
軍靴の音が鳴り響く中、
“平和の祭典”である
東京オリンピック大会は返上され、
“幻の東京オリンピック大会”
となりました。

このことをもっとも
残念に感じているのは、
東京招致に奮闘した
「治五郎」本人であることは
いうまでもありません。

人の何倍も学び、
人の何倍も働き、
人の何倍も考えた
「治五郎」の人生は、私たちが
どんなに頑張っても届かないほど
厚みのある充実した人生です。

ただ、その陰には必ず、
それを上回るたゆまぬ努力があり、
それは、歯を食いしばりながら
未知なる道を
拓き続けたことによるもの。

神戸御影の海沿いの町で
生まれ育った頃から続く、
勤勉さや深い興味、じっちょくさ、
負けん気は、歳を重ねても
変わることはありませんでした。

それは、彼が歩み続けた
苦難の長い道のりが証明しています。

※参考文献
全建ジャーナル2020.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第14話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.3月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第15話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.4月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第16話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓

嘉納治五郎物語⑨
オリンピック初参加の後、大学昇格に向けた闘い。

嘉納治五郎師範ストックホルムオリンピック開会式1912年_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 ストックホルムオリンピック 開会式 1912年
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

オリンピックへの初参加は、
「治五郎」がいたからこその快挙。

世界オリンピック大会の提唱者である
フランスのクーベルタン男爵が、
日本をオリンピックに
招致するために、
駐日フランス大使を通じて
連絡をとったのが、
他ならぬ「治五郎」でした。

これは当時、
日本の近代スポーツの道を
率先して拓いていた
第一人者である彼だからこその、
当然の選択。

すでに世界に広まり始めていた
“柔道”の講道館創設者で、
優秀な卒業生を輩出する
東京高等師範学校の校長を
長年にわたって牽引してきた
“教育者”ということも、
適任者として申し分のない経歴と
判断したようです。

クーベルタン男爵からの
強い懇望もあり、
1909年(明治42年)に
東洋初のIOC
(国際オリンピック委員会)
委員に就任します。

それは第4回の
ロンドンオリンピックが
開催された翌年のことでした。

IOC委員になった
「治五郎」の最初の課題は、
オリンピックへの初参加です。

そのためには、日本国内に
オリンピック委員会を創設して、
代表選手の選考を
行う必要があります。

さらに、1912年(明治45年)の
第5回ストックホルム大会の
開催国であるスウェーデンから
参加要請があったことで、
急を要する事態に急転。

日本の選手を送るためには、
選手を決める選考母体が必要ですが、
文部省は興味を示さず、
日本体育会の協力も
得られませんでした。

そこで、賛同を得た
いくつかの大学とともに新しく
「大日本体育協会」を立ち上げ、
この体協が大学各校に呼び掛けて、
1911年(明治44年)日本初となる
オリンピック予選会を開催。

そこで、初の日本代表選手となる
短距離走の三島弥彦とマラソンの
金栗四三(かなくりしそう)
の2名が選出されました。

オリンピック参加を前に、
「治五郎」が彼らに伝えたのは、
“日本を代表する紳士たれ”
ということです。

講道館柔道の創始者として、
ことのほか礼節を重んじた
彼らしい激励の言葉でした。

マラソン競技に参加した
金栗四三は、現役引退後、
日本のマラソン界の発展に
大きく関わり、
箱根駅伝の開催に
尽力するなど、
後に“日本マラソンの父”と
称されました。

そして、彼の実直な
人物像を浮き彫りした
NHKの大河ドラマ「いだてん」では、
東京高等師範学校で教えを受けた
「治五郎」の背中を追うように、
礼節を重んじ、
勤勉であり続けた生き様が描かれ、
「治五郎」も
ドラマの重要な役割で登場します。

また、オリンピック参加当時に
日射病により途中棄権した
金栗四三は、
1967年(昭和42年)の
ストックホルムオリンピック
開催55周年式典に招待され、
会場に設けられた
ゴールテープを切るという
演出で迎えられました。

会場には、
“日本の金栗選手、
54年8カ月6日5時間32分20秒3で
ゴールイン。
これをもって第5回
ストックホルムオリンピック大会
の全日程を終了しました”
という粋なアナウンスが流れ、
ゴールイン後の金栗四三の
“長い道のりでした。
この間に、孫が5人できました”
という洒落たスピーチは、
会場中の大きな拍手を誘いました。

 

嘉納 治五郎 師範高等師範学校校庭で柔道を指導_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 高等師範学校校庭で柔道を指導する。
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

師範大学昇格は、
約10年にもおよぶ闘いの連続。

第5回
ストックホルムオリンピック
への日本の初参加も
無事終わりました。

安堵のため息をつく暇もなく、
兼ねてから課題となっていた
東京高等師範学校の師範大学昇格
に取り組むことに。

というのも、東京高等師範学校は
高等教育機関(旧制の専門学校)
とみなされ、
大学の“格”ではなかったからです。

日本教育界の“総本山”
と呼ばれるにまで成長し、
東京帝国大学に何ひとつ
劣るところがないと
自負はしていたものの、
大学昇格には、
なかなか一筋縄ではいかない
高い壁がそびえ立っていました。

教育諮問会議の場や、
政府首脳、文部大臣経験者などに
直接面会して訴えるものの、
東京帝国大学中心主義の
役人や大学関係者に
その主張を遮られるばかり。

その積年の思いがかなったのは、
「治五郎」が
定年によって勇退した後の
1923年(大正12年)
のことでした。

その発端は、東京高工
(現在の東京工業大学)、
神戸高商(現在の神戸大学)
が大学昇格に向けて
声をあげたのと連動して、
東京、広島の両高等師範学校が
加わったことで、一挙に
問題解決へと大きく傾いたことです。

この年の9月、関東大震災により
1929年(昭和4年)度の昇格に
繰り延べされましたが、
10年間にもおよぶ闘いに、無事、
終止符が打たれる日が訪れました。

それまで考えることもなかった
オリンピックへの初参加で、
日本は近代国家として
新たな道が拓け始めました。

今では当たり前に
慣れ親しんでいるスポーツも、
「治五郎」が道なき道を開拓した
成果の賜物。

もし彼がいなかったら、
スポーツの発展は何十年も
遅れていたのかも知れません。

※参考文献
全建ジャーナル2019.12月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第12話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.1月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第13話/高崎哲郎
全建ジャーナル2020.2月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第14話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓