2020年の“東京”に紡がれた、「嘉納治五郎」の80年越しの熱い想い。

平和を願う“スポーツの力”は、数千年の昔から変わらない。

今年の夏は、いつもとは違う
“熱い闘い”
が繰り広げられています。

その原点となるのは、
遡ること約2800年前、
栄華を極めた
古代ギリシアで行われていた
スポーツ競技大会にたどり着きます。

4年に一度開催された
スポーツ競技大会の
最初の頃の記録は残っておらず、
現存する最古の記録となる
紀元前776年のものを
第1回としてカウント。

そして、長い時を経て、
西暦369年の第293回を最後に
スポーツ競技大会は、
その歴史に
幕を閉じることになりました。

計算の上では、1172年もの
歴史を重ねたこととなり、
記録が残っていない初期も含めると、
少なくとも1200年ほどの歴史が
あるのではと、
現在もギリシアの地では
初期の記録を求めて、
遺跡発掘が継続されています。

これだけ長く大きな
スポーツ競技の大会が続いたのは、
ゼウスを祭神とした
神事という意味合いが
強く反映されていたからでしょうか。

また、祭典競技期間は
すべての争いごとを止めて、
この祭典に挑むことが規定されていた
ということを考えると、
当時から“平和”への想いを、
スポーツに
託していたのかも知れません。

それから長い歳月を経て近代となり、
この“平和への願い”を継承した
世界的なスポーツ大会として
再開しました。

その根底には、
紛争国同士であっても、
この大会期間だけは
スポーツを通じて好敵手としての
絆を深めるという平和に向けた
理念が込められています。

そして、
極東の小さな島国であった日本が、
この国際スポーツ大会に
参加するキッカケとなったのは、
他ならぬ「嘉納治五郎」の
存在でした。

彼は、勝つことが目的の“柔術”を、
科学的な理論、精神的な鍛錬による
礼節を重んじる「柔道」へと
昇華させた側面が、
あまりにも有名です。

しかし、彼の偉業は、むしろ、
日本に大きな教育改革をもたらした
“教育者としての顔”ということは
あまり知られていません。

長期にわたる欧州視察によって得た
知識をもとに、国内で初めて
スポーツ振興という概念を
根付かせたのは、「治五郎」です。

また、“女子柔道”を始め、
男女が平等に勉強したり、
男女分け隔てなく
スポーツに打ち込むなど、
いち早く男女平等機会の
創出に奔走したことなど…
現在、当たり前のように行われている
体育の授業や放課後の部活動も、
「治五郎」が実際に教育現場で
成し得た実績のひとつです。

こうした、日本の教育改革の
先駆者である「治五郎」のもとに、
国際スポーツ大会組織委員会から
委員の就任要請が届いたのは
必然だったと思われます。

彼の興した「柔道」の競技人口が
欧州で増え始めたことをキッカケに、
彼の数々の教育に関わる取り組みが
認められた結果です。

礼に始まり礼に終わるフェアな
精神が宿る「柔道」を通して
広まった、彼の人望が
世界に認められた瞬間でした。

 

 

世界に根付いた「嘉納治五郎」が追い求めたフェアなスポーツマンシップ。

日本の代表としての組織委員就任は、
日本を国際大会へと
一歩近づけることになります。

彼の実直さはすぐに認められ、
組織委員就任の数年後には、大会への
選手派遣の要請が届きました。

ところが、
大会初参加前年に発生した
関東大震災の復興が
ままならない状態で、
大会への参加見送りを
検討する事態に。

しかし、“それまで積み上げてきた
スポーツの進歩を
止めるべきではなく、
海外に日本国民の
復興への意気込みを示す”という、
「治五郎」の強い主張のもと、
初めての国際大会参加を
無事終えることとなりました。

彼は、組織委員に就任して以降、
還暦を過ぎた人物とは思えないほど、
国際会議への参加や大会視察など、
精力的に世界を駆け回りました。

そして、1933年(昭和8年)に
開催されたウィーンでの総会で
東京大会の招致を主張。

その後も、東京招致に反対する
加盟国に決してひるむことなく、
堪能な英語を駆使して反論し、
東京大会の招致が決まりました。

しかし。

その翌年、洋行途中の船上で急逝。

彼が望んだ東京大会も
戦争により幻の大会となりました。

このことを
もっとも残念に感じているのは、
東京招致に奮闘した
「治五郎」本人であることは、
いうまでもありません。

それから80年、東京の地で
彼の望んだ熱戦が
繰り広げられています。

彼がもっとも大切にした
フェアなスポーツマンシップは、
「柔道」のみならず、
他の競技でも
ルールの基本として根付き、
彼の“子供たち”の活躍を
喜んでいるのは「嘉納治五郎」
本人に違いありません。