美味しい日本酒づくり…「二十歳の山田錦物語」第三章、醸造体験。

初めての醸造体験は、見ること聞くこと初めて尽くし。

昨年6月の田植えにはじまり、
10月の稲刈りを終えた
「二十歳の山田錦物語」
プロジェクト。

今年度に20歳を迎える
農学や醸造学を学ぶ大学生約20名が
“山田錦(酒米)を植え、
収穫した酒米で日本酒を造り、
販売までを実践する”
という産学連携の取り組みです。

10月に刈り取られた酒米は、
精米歩合39%まで磨かれます。

たとえば、米が100kgある
とすると、雑味の原因となる
表面の脂肪やタンパク質を削り取り、
39kgにまで磨き落とされる
ということを意味しています。

その後、仕込みがはじまるまで
調湿されます。

そしていよいよ、
醸造体験当日の1月19日(日)です。

精米された山田錦は、洗米、浸漬
(しんせき/一定時間、水に浸す)
され、水切りの後、蒸米工程へ。

ここで大切なのは、米を“炊く”
のではなく“蒸す”ということ。

高温の蒸気で蒸すことで、
“外硬内軟(がいこうないなん)”
という、外は硬く、内側は軟らかく
溶けやすい状態になり、
麹菌が繁殖しやすくなります。

そしていよいよ、
学生たちの作業がスタートします。

蒸した酒米を床に薄く広げる
放冷工程で、粗熱をとります。

蔵人に習って
できるだけ薄く広げていきます。

冷たい空気に晒すことで
冷却すると同時に、
水分が蒸発する際に熱が奪われて
冷却される仕組み。

次に体験したのは、
タンクで醗酵がすすむ生酛を
撹拌する“櫂入れ”作業に
2人ひと組で挑戦。

仕込み日ごとに並べられた
タンクの中は、灘酒の代名詞
ともいえる“宮水”や米麹、蒸米が
融け合った“生酛”が醗酵を続けています。

簡単そうで、手にかなりの
負担がかかる力作業です。

作業ごとに設けられたスペースを
移動する中、何より驚くのは、
酒蔵全般にわたって年季の入った
道具類が整然と並んでいること。

厳冬期特有の
ピンとはりつめた空気と相まって、
脈々と受け継がれてきた技術や伝統と
微生物に対する畏怖の念を感じ、
背筋が伸びる思いです。

 

 

お酒の仕込みは体力勝負。あえて昔ながらの手作業で行われました。

午後からは、約36℃の部屋で
“床もみ(とこもみ)”工程。

まずは塊になった蒸米を手のひらで
、ひと粒ずつにばらします。

この作業の難しいところは、
米をつぶさず、ばらけさせること。

ある程度ばらけたところで、
薄く広げ、麹菌の胞子を散布。

蒸米ひと粒ひと粒に
麹菌の胞子がまんべんなく
付着するようにもみ込みます。

作業の途中で、
菌糸がしっかり米に定着するまで、
静かに待機する様子は、
“美味しくなる”儀式のようで、
神々しさすら感じました。

現代の酒造りは科学的に管理
されていますが、今回のあえて
昔ながらの道具を使って、
昔ながらの手法での酒造り体験は、
学生たちにとってかけがえのない
時間となったようです。

作業を終えた学生たちは、
“自分たちがつくったお米が日本酒
になるのは、ホントに楽しみ”
“かなりしんどかったけど、
久しぶりにいい汗をかいた”
と、貴重な経験を通して、
やり遂げた感の笑顔で仕上がりへの
期待感もいっぱいの様子でした。

「二十歳の山田錦物語」の
完成試飲会は3月1日の予定。

酒質は、精米歩合39%の純米大吟醸酒
しぼりたて無濾過原酒です。

学生たちが田植えをし、稲刈りをした
“兵庫県三木市吉川「嘉納会」
特A地区産山田錦100%使用”
という文字が記されています。

限定生産なので、
早目のご購入をおすすめするとともに、
乞うご期待です。

2020年の干支は“庚子(かのえね)”②
菊正宗創業の干支は、そのひとつ前の“己亥(つちのとのい)”。

菊正宗 燗酒 囲炉裏

穏やかな徳川時代とともに約200年も歩んだ菊正宗の歴史。

菊正宗酒造は、2019年(令和元年)
に創業360年を迎えました。

菊正宗酒造の創業は、
1659年(万治2年)で、
干支は “己亥(つちのとのい)”で、
第4代将軍、徳川家綱の時代です。

2周期目の“己亥”は、
1719年(享保4年)で
第8代将軍、徳川吉宗。

いわずと知れた享保の改革や財政復興を
成し遂げた“暴れん坊将軍”です。

3周期目となる“己亥”が
1779年(安永8年)で、
第10代将軍、徳川家治。

さらに4周期目の“己亥”が
1839年(天保10年)で、
第12代将軍、徳川家慶。

5周期目となる“己亥”が
1899年(明治32年)となり、
ようやく徳川の時代が終わり、
近代国家の幕開けとなります。

創業以来、
徳川幕府と約200年以上も、
ともに歩んだ計算となるのです。

江戸時代というと、
“ちょんまげ、着物、刀”などの
イメージが伴いますが、
徳川家康から徳川慶喜まで
約260年は、比較的、
平和で緩やかな時代で、
初期と末期では当然、
文化や文明の進歩があります。

そんな歴史の流れの中に
菊正宗があったことを考えると
感慨深いものがあります。

灘から江戸に向けて
“下り酒”を届ける樽廻船が登場
したのは1730年(享保15年)、
菊正宗創業70周年あたりのころです。

それまでも菱垣廻船で、
醤油や米、糠などの他の物資と一緒に
灘酒を運んでいました。

18世紀末頃には
“下り酒”人気が高まり、
菊正宗で醸造したお酒のほとんどを
江戸に運んでいた
という記録が残っています。

創業から約120年も経ったころ。

武士はもとより、庶民にも
菊正宗は行き渡っていたほどの量が
届けられていたことが背景となり、
現在でも東京の料飲店の多くで、
菊正宗を採用いただいています。

江戸は世界一人口が多い都市でした。

1603年(慶長8年)に
徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、
江戸の市街地の普請(ふしん)に
着手した頃の人口は約15万人程度。

それが、1721年(享保6年)の
人口調査で、江戸の人口は
110万人という記録があり、
最盛期は200万人とも
いわれています。

当時の世界に目を向けると、
ロンドンが約86万人、
パリが約56万人という
文献が残されているので、
江戸は世界で一番
人口が多かったとのこと。

驚くのはその人口密度。

身分によって住むエリアが
厳格に決められており、
江戸人口の半分にあたる
約50万人の町人が、
住むのを許された
江戸の約15%のエリアに
くらしていました。

数字に換算すると
1k㎡あたり約6万人の計算に。

現代と比較すると、
もっとも人口密度の高い
とされる豊島区が約2.2万人。

さらに江戸の町そのものが
今よりもかなり狭く、
高層住宅など存在しない
平屋づくりばかりなので、
長屋と称される場所で、
喜怒哀楽に満ちあふれた
芋洗い状態で暮らしていた
様子が想像されます。

江戸の昔は、
現在ほどの娯楽がない時代。

当時を振り返ってみると、
灘から江戸に送られた“下り酒”は、
多くの庶民に愛された
楽しみのひとつであったことが、
うかがい知れます。

江戸に住む多くの人々に
愛された菊正宗ブランドは、
360年経ったいまも、変わらぬ
美味しさを全国に届けています。

“鬼は外、福は内”。「節分」はくらしに定着した季節行事のひとつ

「節分」は、立春の前日ということをご存知ですか。

2020年(令和2年)の「節分」は
2月3日木曜日。

「節分」は“彼岸”や“八十八夜”
“土用”と同じく9つある
雑節のひとつです。

「節分」は、1985年以来
36年間ずっと2月3日だったので、
日が固定された季節行事
と思われがちですが、
2021年は2月2日。

これは、立春の前日が「節分」で、
立春が太陽の運行に基づいているため
、年によって日付が異なるためです。

またその先の日付も
軌道計算によって割り出されています
が、あくまで予測の日付となります。

旧暦では立春が新年なので、
その前日の「節分」は
大晦日にあたります。

つまり冬から春へと
“季節を分ける日”ということです。

本来は、立春だけでなく、
立夏、立秋、立冬それぞれの前日も
季節を分ける「節分」にあたります。

しかし、年の節目となる
立春のタイミングが
もっとも大事な日とされたことで、
「節分」といえば立春の前日
ということが定着しました。

「節分」は、
他の多くの季節歳時と同じように、
もともと中国から伝わったもので、
平安から室町時代にかけて、
宮中行事として “追儺(ついな)”
という儀式が執り行われていましたが
、江戸時代になって庶民のもとに
届く頃には、簡略化された儀式へと
変化していました。

そんな、「節分」の行事といえば、
皆さんご存知のように、
“豆まき”“恵方巻き”“魔除けの鰯”
などがあります。

季節の変わり目で、
気温の急激な変化で風邪を引くなど、
体調を崩す人が多いこの時期、
“邪気(鬼)”の仕業と考えられた
ことから、いずれも悪霊払いの
意味を持っています。

「節分」の行事の基本は、季節の変わり目の邪気払い。

“豆まき”は、宮中行事から
受け継がれている風習です。

穀物には生命力と魔除けの力が
備わっているということと、
“魔滅(まめ)”に通じるという
語呂合わせで、鬼に豆をぶつけることで
邪気を払い、一年の無病息災の願いが
込められた風習とされています。

「鬼は外、福は内」の掛け声とともに
豆をまき、年の数だけ豆を食べる…
というのが一般的ですが、
地域によって少々異なるようです。

後方に豆をまいたり、
鬼を祭神とする神社や鬼がつく地名、
鬼のつく姓の方など、
“鬼は内(鬼も内)”、
丹羽氏が藩主の旧二本松藩の領内
の一部では“お丹羽、外”と
聞こえるのを避けるために、
“鬼、外”とするなど、
地域ごとに代々伝わる習わし
に沿って行われています。

また「節分」に、
“渡辺”姓と“坂田“姓は
豆をまかなくてよいという
言い伝えも残されています。

これは平安時代に、
町で暴れた大江山の
“酒呑童子(しゅてんどうじ)”
という鬼を退治した、
“源頼光(みなもとのらいこう)”
の家臣である四天王の逸話が発端。

四天王の中でも、
“渡辺綱(わたなべのつな)”、
“坂田金時(さかたのきんとき)”
の2人は、とても剛毅で、
無法者の鬼でさえ
恐れて近づかなかったことから、
その子孫は鬼払いの豆まきをする
必要がないというお話です。

“恵方巻き”は、
その年の恵方を向いて
無言で太巻き寿司を食べると
縁起が良いという風習。

もともとは関西地方の習わしで、
太巻き寿司を“丸かぶり”と呼び、
「節分」の夜に食べていたものが
全国に広がりました。

ちなみに2020年(令和2年)の
恵方は、西南西とのこと。

“魔除けの鰯”について、
鬼は鰯(いわし)の生臭さと
柊(ひいらぎ)のトゲが苦手
とされるという伝説が元となり、
鰯の頭を焼いたものを
柊の枝に刺して玄関に飾って、
鬼が入ってこないようにする
風習です。

最近は、
マンション住まいなどが増えて、
あまり見かけることはありません。

“鰯の頭も信心から”という
ことわざは、この風習に由来します。

「節分」は、
庶民のくらしに融け込んだ
季節行事といえます。

豆まき用の“炒り豆”と
具がたっぷりの“恵方巻き”が
食卓に並ぶこの日は、
魔除けを肴に、
熱𤏐で一杯、
楽しみたいところです。

菊正宗 燗酒

2020年の干支は“庚子(かのえね)”①
新しいことにチャレンジするのに、うってつけの年です。

干支は、“十干”と“十二支”の組み合わせた表現が正解。

“今年の干支は、ねずみです”
などと表現しますが、
これは正確ではありません。

干支は、“十干(じっかん)”と
“十二支(じゅうにし)”を
組み合わせたものをいいます。

十干は、
「甲(きのえ)・乙(きのと)
・丙(ひのえ)・丁(ひのと)
・戊(つちのえ)・己(つちのと)
・庚(かのえ)・辛(かのと)
・壬(みずのえ)・癸(みずのと)」
の10種類からなり、
十二支は、
「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)
・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)
・午(うま)・未(ひつじ)
・申(さる)・酉(とり)
・戌(いぬ)・亥(いし)」
の12種類からなります。

十干と十二支の組み合わせそのものは
単純に10×12で120通りありますが、
“甲子”からはじまり、
次の“甲子”の年が61回目。

つまり60年周期となり、
組み合わない60の“組み合わせ”
があるということになります。

菊正宗創業360周年と干支

2020年(令和2年)の干支は、
「庚子(かのえね)」です。

「庚子」を構成する“庚”は
古代中国の陰陽五行説の
“金の陽”の属性を持ち、
金属のような冷たさ、
堅さの性質があり、
植物の生長が止まり
新たなカタチに変化しようと
する状態を表しています。

一方、“子”は“水”の属性で、
種子に新たな生命が芽吹く
準備が整った状態にあり、
可能性や変化、さらには繁栄
をもたらす象徴とされています。

さらに“庚子”の組み合わせは
“金生水”と呼ばれる
「相生(そうせい)」という
お互いを生かす関係にあります。

全般的に変化の多い年なので、
まったく新しいことへのチャレンジ
に適した年とされているようです。

ちなみに、2019年(令和元年)に
創業360年を迎えた菊正宗酒造。

創業を開始した
1659年(万治2年)の干支は、
“己亥(つちのとのい)”。

2020年(令和2年)の今年は、
干支を無事6周し、7周目を
スタートする年にあたります。

 

干支にまつわる出来事や都市伝説。

干支を冠した歴史的な出来事が
いくつかあります。

有名なところでは
1924年(大正13年)、
甲子(きのえね)の年に
完成した“阪神甲子園球場”。

古くは672年(弘文元年/天武元年)、
大海人皇子(後の天武天皇)が
大友皇子に対して挙兵した
“壬申の乱(じんしんのらん)”や、
1868年(慶応4年)に
薩長新政府軍と旧幕府群が戦った
“戊辰戦争”などです。

1年間を通して、もっとも干支を
意識するのは年賀状の時期で、
それ以外では干支を気にする機会
はほとんどないと行っても
過言ではありません。

ところが60年に1度だけ、
干支が話題となる年があります。

それが、“丙午(ひのえうま)”の年です。

江戸時代初期の
“丙午の年は火災が多い”
という迷信が発端。

恋人に会いたい一心で
放火事件を起こし、
火あぶりの刑に処された八百屋お七が
丙午の年に生まれたとされたのが
その云われとされていますが、
事実無根の作り話とのことです。

しかし、この由来だけがひとり歩きし
、“丙午の年に生まれた女性は
気性が荒く、夫の寿命を縮める”
という迷信がいまだに
根強く残っているようで、
1906年(明治39年)の丙午の年は、
出生数が前年より約4%減少。

1966年(昭和41年)には、
出生数が前年より
約25%も減少しました。

実際は、何の根拠もない都市伝説で、
逆に考えると競争相手が少ない分、
大学受験や就職の競争倍率が少なく
有利な当たり年と
いえるのかもしれません。

次の丙午は2026年(令和8年)。

より多くのお子様が授かることを
心から願っております。

普段、干支を意識する機会は
あまりないものの、空気のように
くらしの中に融け込んでいるのが
干支なのかもしれません。

佳い吉祥だけに願いを込め、
悪い都市伝説は目をつむり、
耳を塞いで行き過ぎるのを待つ位の
余裕が必要だともいえます。

菊正宗の新しいチャレンジに
ご期待ください。

混迷する環境問題。その一方で、イカナゴ不漁の原因に、驚きの事実が。

世界のあちらこちらで、環境問題に関する討論が喧しい現在。

以前より環境に関する
さまざまなテーマは
世界で話し合われてきましたが、
ここ最近、
その議論は白熱する一方です。

先頃のCOP25
(国連気候変動枠組条約
第25回締約国会議)で、
日本は温暖化対策を
講じていないという理由で
不名誉な“化石賞”を受賞。

これは、震災後に
全体の約4分の1を占めていた
原子力発電の代わりに
火力発電のウエイトを
増やさざるを得なかったことが
大きな要因で、化石燃料に頼らない
新たな代替エネルギーの
登場が求められます。

しかし、世界のCO2排出量については、
トップの中国と2位のアメリカだけで
全体の43%以上ものCO2排出量
という驚きの実情もあります。

またスウェーデンの女子学生の
各国首脳を前にしたスピーチは、
瞬く間に世界へと映像配信。

その鬼気迫る歪んだ顔と
礼儀のない強い言葉の
エキセントリックさばかりが際立ち、
伝えたいことの本質から
遠のくばかり。

さらに、
地球温暖化が懸念される一方で、
小氷河期の到来を示唆する学説が
一部で発表されるなど、
どれが正解で、どれが間違いなのか。

本当に持続可能な環境を
未来へと残すためには、国や組織、
団体などのそれぞれの“思惑”や、
主張する側の“都合のいいルール”
という壁を取り除いて、
膝を付き合わして
真剣に話し合うことが
大切なような気がします。

まずは、レジ袋を
昔の買い物かごに持ち替え、
ストローを使わないなどの、
目の前の環境保全から
スタートすることが大切なようです。

とはいえ、昨今の異常気象ともいえる
激しい気候変動の大きな原因として、
海水温の上昇は少なからず
影響があるのは事実。

台風の異常発生や暴風雨、水害などは、
この海水温の上昇が引き起こしている
との見解があります。

その影響は海洋生物の生態にも
大きな変化を及ぼしています。

「土用の丑」でお伝えしたように、
ウナギの漁獲量が激減している要因
のひとつが、この海水温の上昇。

海水温の変化で
微妙に海流の流れが変わるようで、
養殖用のシラスウナギは
産卵場所や回遊経路が
大きく変わっているとの研究結果も
発表されています。

それでなくても、ウナギは
もともと謎が多い魚で、
護岸に伴う河口堰の建設により
海水と淡水が混ざり合う
汽水域を減らし、さらに構造上、
天然ウナギの遡上を阻んでいます。

“土用の丑の日に
ウナギを食べる”ことは、
ものすごく贅沢なのかも
しれません。

 

環境適応力に優れたワカサギは、今年も旬の美味しさを届けます。

少し季節は早いですが、
春を告げる神戸の風物詩ともいえる
“イカナゴのクギ煮”が
絶滅の危機に瀕しています。

原材料となるイカナゴの新子(稚魚)
の漁獲量が1万から2万トン、
多い年は3万トン獲れていたものが、
平成31年度は899トンにとどまり、
長年その対策に
頭を悩ませているとのこと。

原因は前年夏の海水温が高いことで
産卵時に親も卵も死ぬ
と思われていましたが、
海水温が比較的低い翌年も
漁獲高は減少傾向となり、
謎は深まるばかり。

菊正宗 いかなご

そんな中、
昨年のシーズンを過ぎたあたりに
驚きの報道記事が
新聞に掲載されました。

“きれい過ぎる海”がイカナゴ不漁の
最たる原因だったようです。

かつて魚介類の宝庫であった
瀬戸内海は、
家庭や工場からの排水などにより
窒素やリンが過剰となり、
プランクトンが大量発生して
赤潮を頻発。

法令による排水規制を行ったことで、
水質が大きく改善した
という経緯があります。

その反面、魚介類の栄養素
とされる“栄養塩”が減り、
海苔の色落ちや
さまざまな漁獲減を招くことに
なったようで、故事にある
“水清ければ魚棲まず”を
地で行ったようなものです。

そこで兵庫県は、
“豊かで美しい瀬戸内海の再生”
を謳い、排水基準を緩和する条例改正
を行うことを決定しました。

まさに自然とのいたちごっこ。

上手くバランスが取れることを願い、
その結果が待たれるところです。

イカナゴのように
ある意味デリケートな魚が
環境に左右される一方で、
今がまさに旬の「ワカサギ」は、
環境適応に優れた魚で、
水質の悪化や低水温、
塩分濃度にも広い適応力があり、
各地の湖沼に移植されて
全国に分布域を広げています。

やはり、氷結した湖面に
ドリルで穴を開けて釣る
“氷上の穴釣り”は
冬の風物詩として有名で、
この釣りスタイルでは乱獲
とまでは行かないため、
しばらくは旬の美味しさを
楽しめそうです。

“氷上の穴釣り”は家族で楽しめる
体験型アクティビティー。

移動行程を楽しみ、
現地で釣りを楽しみ、
そして新鮮な味を楽しむ、
娯楽要素満載の
冬のエンターテイメントといえます。

氷結していない湖沼でも、
屋形船のようなドーム型釣り船、
また湖岸の温室ドームなど、
さまざまな釣りのスタイル
があります。

残念ながら温暖な関西エリアでは、
“氷上の穴釣り”はできませんが、
近くの温泉と組み合わせて
楽しむのも一興です。

釣り上げたワカサギは、
ぜひ現地でその新鮮さを味わい、
必ずクーラーボックスで持ち帰る
ことをオススメします。

淡白で繊細な味わいなので、
素揚げや天ぷらを
塩で食べるのが絶品。

天つゆに大根おろしを入れる
のも定番です。

醤油に浸けて焼いたり、
マリネや南蛮漬け、
甘露煮にしても
その美味しさを楽しめます。

竹中缶詰わかさぎ

淡白な味わいのワカサギには、
香り高い辛口の純米大吟醸を
冷酒でいただくのがオススメ。

絶妙な味と香りの
マリアージュといえます。

環境問題は、
未来につなぐ大切な課題です。

本来は自然のままにというのが
一番なのでしょうが、
これだけ都市化が進んだ今、
一方向に偏った主張ではなく、
バランスの取れた議論を
望みたいところ。

イカナゴの例にあるように、
キレイにすれば良い
という訳でもありません。

眉間にしわを寄せて
議論を戦わせるより、
美味しい料理と美味しい酒を
交わしながら、和やかに
未来を模索して欲しいものです。