嘉納治五郎物語⑧
通算23年勤め上げた、重責の高等師範学校長職。

東京高等師範学校_菊正宗ネットショップブログ
東京高等師範学校
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

33歳で高等師範学校長に就任。
新しい時代の教員育成への舵取り。

せっかく、手塩にかけた
第五高等中学を辞めることは、
決して望まなかった…と、
「治五郎」は、
自著で追想しています。

しかし、その時、
文部省の教科書検定事業において、
その方針が外部に漏れる
という大問題が発生し、
文部省ではその火消しに
躍起になっている最中(さなか)。

行政官、教育者として清廉潔白な
彼に白羽の矢が立ったのは、
ある意味、当然の選択でした。

1893年(明治26年)、
東京に呼び戻された「治五郎」を
待ち受けていたのは、
文部省参事官としての激務。

それに折り重なるように、
第一高等中学校(現東京大学)校長、
高等師範学校
(東京教育大学を経て、現筑波大学)
校長の職を兼務することになり、
その傍らで“講道館”“嘉納塾”の
運営、指導を行っていました。

さすがに3つの要職の兼務は、
あまりにも過酷過ぎて長くは続かず、
ひとつに絞って
高等師範学校長の専任に。

この時「治五郎」は、
まだ33歳です。

「治五郎」の
高等師範学校長の足跡は、
時代ごとに第1次、第2次、第3次の
三度に分けられます。

ただ、
いつもその時代の学校改革を先駆け、
それを手本として
全国に広まって行った
ということがいえます。

2度の辞職を経て、
生涯を通じて23年間も
高等師範学校長の重責を勤め上げ、
国立唯一の高等師範教育機関で、
通算20年を超えて
校長職にあったのは、
後にも先にも「治五郎」だけでした。

第1次の校長職は
1893年(明治26年)から
1897年(明治30年)の4年間。

「治五郎」が校長になった頃の
高等師範学校は、
生徒数90人程度と規模が小さく、
教授の数や予算も貧弱そのもの。

当時、第一高等中学が
1000人もの生徒を
全国から受け入れていたのと
比較すると、その差は歴然でした。

それを変えるために、まずは
全国の優秀な中学校卒業生を
毎年受け入れ、
予算も文部省に直接掛け合って
大幅に増額、
教授陣の充実も急ぎました。

そのひとつが、
東京帝国大学大学院生で
秀才といわれた当時26歳の
“夏目金之助(後の夏目漱石)”を
嘱託の英語教師として招聘。

彼の採用は、
他の英語教師への良い刺激となり、
教育現場の空気は
一新したといいます。

政府が、
行政に関わるさまざまな事業を
縮小整理しようとする流れの中で、
まさに異例の快挙でした。

また、
政府方針を否定することを恐れずに、
軍隊式教育方針を排除する
大英断を敢行。

加えて、自由を重んじる
学生寮規則を制定するなど、
自由な教育環境の基礎を
築き始めました。

運動面では、西洋風の体育を導入。

日本の学校組織としては初となる
柔道部や陸上部などの運動会
(今のクラブ活動)を創設し、
学生はそのどれかに所属して
毎日30分以上は必ず運動することを
ルール化することで、
基礎体力づくりを奨励しました。

「治五郎」がめざしたのは、
欧州視察で見聞きした
深い見識が随所に生かされた、
近代日本を担う新しい教育制度です。

 

嘉納治五郎師範肖像明治27年ころ30代_菊正宗ネットショップブログ
嘉納 治五郎 師範 肖像 明治27年頃(30代)
~資料提供 公益財団法人 講道館~※転載利用不可

中央政界の余波を受け、
最初の頃は、辞職、再任を繰り返す。

高等師範学校の
新しい基礎を築いたにも関わらず、
混乱する中央政界の余波を受け、
教育理念を持たない
文部省次官と衝突しても
信念を曲げなかったため、
最初の校長職を辞職することに。

混迷する政局が絡み、
非職して3カ月後に復職したものの、
第2次の校長職も、半年余りで
再び辞職することに。

ところが、
第3次は意外にも早く訪れます。

文部官僚人事が
大きく変わったことが幸いして
1901年(明治34年)
再び校長職に就き、
1920年(大正9年)に
60歳で退職するまで、
19年にもおよぶ長い在職です。

校長初任時に
僅かだった在校生徒数も、
「治五郎」の定年退職時には
724人と、大きく増えていました。

3度目の長い校長職就任期間には、
修業年限を3年から4年に広げ、
文科と理科だった学部に
体育科を設置するとともに、
それぞれの本科の上に、
専攻科や研究科(今でいう大学院)
を設けました。

当時のトップであった
東京帝国大学並みの
最高学府に育てることを目標に
取り組んだといいます。

もちろん、優秀な教授の充実にも
力を注ぎました。

僅か100人前後の生徒たちを
指導するために、前述の
夏目金之助(夏目漱石)を始め、
当時、それぞれの分野で高名な
錚々たる面々を招致した
「治五郎」の手腕には
舌を巻くばかりです。

重責の校長職にあって、
毎日曜日の早朝、
“嘉納塾”塾生への処身法講義や
“講道館”館員への柔道講義を
欠かすことはありませんでした。

教育に真っ向から向き合い、
一点の曇もない
彼の教育にかける思いは、
“教育の父”と称されることからも
計り知ることができます。

※参考文献
全建ジャーナル2019.9月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第9話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.10月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第10話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.11月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第11話/高崎哲郎
全建ジャーナル2019.12月号「文は橘、武は桜、嘉納治五郎〜その詩と真実〜」第12話/高崎哲郎
御影が生んだ偉人・嘉納治五郎/道谷卓