
平安から現代へ…古の怨霊伝説が残したものは、守護の神。
日差しに夏の気配が混じりはじめるこの季節になると、涼を求めて、つい怪談や不思議な話に心が惹かれてしまうものです。日本の風物詩として、いつしか夏は、背筋がヒヤリとする“怖い話”の季節として、すっかり定着しました。こうした“怖い話”の歴史を紐解くと辿り着くのが、平安期の「日本三大怨霊」です。怨霊とは、無念のうちに命を落とした者の怒りや恨みが霊となり、この世に災いをもたらす存在といえます。

平将門、崇徳天皇に加えて、驚くことに、前回の「梅の日」のブログで紹介した菅原道真もこの三大怨霊に名を連ねています。彼らが怨霊といわれるようになったのには、政争や権力争いに巻き込まれ、不遇の最期をとげたという共通の背景が見えてきます。そしてその死後、都に落雷や疫病、地震といった災厄が相次いだことから、彼らの祟りと恐れられ、それを鎮めるために神格化されました。そもそも平安時代の話がなぜ現代まで語り継がれているのでしょうか。当時は庶民が文字に触れることも少なく、こうした伝説に直接触れる機会は限られていたはずです。

それでも、僧侶による説法や陰陽師の祈祷、寺社での供養、さらに中世以降の能や歌舞伎といった芸能によって、物語は少しずつ形を変えながら民衆の中に広まっていきました。語り継がれる中で恐怖から鎮魂へ、そして親しまれる存在へと大きく変化を遂げたのです。
三大怨霊とされる人物たちは、単なる恐怖の象徴ではありません。菅原道真は、時の天皇に重用され右大臣に昇進しましたが、左大臣の反感を買い、無実の罪で太宰府へと左遷されます。2年後に病没しますが、流刑地では“天神様”として祀られ、学問の神として受験生たちの信仰を集めます。

また、勢力を広げた平将門は朝廷と対立し京都で斬首刑に。目を見開いたままの晒し首は空に飛び上がり、関東方面へと飛んでいったと伝えられています。東京の大手町付近に落ち、その首を埋葬したとされる首塚は、オフィス街の真ん中で地域の守り神として手厚く供養。父に疎まれた崇徳天皇は、讃岐へと流刑されますが、穏やかな余生を送り、彼の鎮魂を願って建立された白峯神社にはけまりの守護神も祀られ、サッカーの神様として多くの信仰を集めています。

平安時代の怨霊伝説と、江戸時代に広まった怪談には明確な違いもあります。怨霊は国全体の災厄を引き起こす存在として恐れられたのに対し、四谷怪談や皿屋敷などの江戸怪談は、庶民の身近な恐怖を描いたものでした。どちらも“無念を残して死んだ者がこの世に影響を与える”という点で共通していますが、その広がり方と扱われ方は、時代によって変わってきたのです。祟りは恐ろしいものですが、その背後には報われなかった人の想いや、忘れ去られてはならない歴史が込められています。怨霊とは、語られることで今なお生き続ける“記憶”のかたちなのかもしれません。夏の怪談シーズンを前に、そんな日本人と霊の独特な距離感に、ふと思いを馳せてみるのも一興です。
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