夭逝の俳人「正岡子規」は、知る人ぞ知る無類の柿好き。

法隆寺

有名な“柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺”にまつわる物語。

“柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺”
という句は、
正岡子規が生涯で詠んだとされる
約20万句以上の俳句の中で
もっとも有名なもの
といえるでしょう。

この句の初出は、
1895年(明治28年)11月8日の
「海南新聞」での掲載です。

この句が誕生した背景には、
持病の結核が大きく関係しています。

後に子規と名乗る正岡常規
(つねのり/別名は升(のぼる))
が、故郷の松山から
政治家を志して上京し、
東大予備門(旧制一高の前身/
現在の東大教養学部)に入学し、
生涯を通じて友となる
夏目漱石と出会いました。

また当時アメリカから
入ってきたばかりの
“ベースボール”に熱中する
血気盛んな青年でしたが、
ある日突然の喀血。

その翌日、結核と診断されました。

1889年(明治22年)、彼が22歳の時のこと。

ちなみに、
自らの俳号を“子規”としたのは、
中国の故事で“血を吐くまで鳴く”
とされるホトトギスの
漢字表記を用いたもので、
喀血した直後から
“子規”を名乗りはじめます。

結核により、
政治家になる夢がついえた子規は
新聞記者になり、
周囲に反対されるなか、日清戦争に
連隊つきの記者として従軍。

しかし大陸に渡った2日後に
下関条約が締結。

日清戦争は事実上の終戦を迎え、
帰国の途に着いた
1895年(明治28年)5月、
子規は船中で喀血。

結核の再発です。

そのため、神戸須磨での療養を経て、
故郷の愛媛県松山に戻り、
約半年間の療養を
余儀なくされることとなりました。

故郷の松山では、
松山中学の教員として赴任していた
夏目漱石と約2ヵ月近く同居
していたそうです。

やがて病状が回復して東京に戻る途中
、数日間、立ち寄った奈良で
詠まれたのがこの有名な俳句です。

それと一緒に、

“渋柿やあら壁つゞく奈良の町”

“渋柿や古寺多き奈良の町”

“柿落ちて 犬吠ゆる奈良の 横町かな”

“奈良の宿 御所柿くへば 鹿が鳴く”

という、すべてに“柿”という言葉を
使った句が残っています。

また、
この句が詠まれた日にちなんで、
全国果樹研究連合会によって、
10月26日は「柿の日」
に制定されました。

後に子規の随筆「くだもの」で、
当時の滞在していた奈良の宿での
出来事が紹介されています。

それによると、宿屋の下女が
持ってきた御所柿を食べている時に
東大寺の釣り鐘の音が響いた
と記されていることから、
実際は法隆寺ではなく東大寺の
鐘の音ではないかという説や、
病み上がりということもあって、
そもそも法隆寺には行かなかった
という説があります。

また、この句を発表する2ヵ月前の
1895年(明治28年)9月、
同じ「海南新聞」に掲載されていた、
漱石の“鐘つけば銀杏散るなり建長寺”
という句に引きずられたのでは
という説もありますが、
当人たちがそれに触れることはなく、
どの説も定かではありません。

親友の夏目漱石も舌を巻いた、正岡子規の無類の柿好き。

子規の俳句には、
しばしば柿が登場します。

というのも、子規は無類の柿好きで、
“樽柿”を一度に7〜8個も食べる
のを常としていたとのこと。

“樽柿”とは、酒樽に渋柿を詰め、
樽に残ったアルコール分によって
渋を抜いた柿のことで、
どちらかといえば安物の柿。

また晩年には、
“我死にし後は
柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし
(私が死んだら、柿食いの
俳句好きと言ってほしい)”
という言葉が残っているほどです。

友人の夏目漱石の「三四郎」に
“子規は果物がたいへん好きだった。
かついくらでも食える男だった。
ある時大きな樽柿を
十六食ったことがある。
それでなんともなかった。
自分などはとても
子規のまねはできない。
…三四郎は笑って聞いていた。”と、
正岡子規の柿好きを
表した場面が登場します。

東京に戻った子規は、
1902年(明治35年)9月に
34歳で亡くなるまで、
ほとんどを病床に臥せって
過ごすことになりますが、
俳句や和歌に関する造詣は
より研ぎ澄まされ、
病床から旺盛な創作活動を
亡くなる直前まで続けました。

友人や門人たちは
子規の柿好きを知っていて、
こぞってお見舞いに送ったのが柿で、
それを食べ過ぎて腹をこわし、
医師から告げられたのが柿の断食。

それを知らずに届く柿のお見舞いを、
病床の周りで家族が食べる様子を
恨ましく思ったようで、
その時の心情を
俳句にしたためたものが
数多く残っています。

“柿くはぬ病に柿をもらひけり”

“我好の柿をくはれぬ病哉”

“胃を病んで柿をくはれぬいさめ哉”

“側に柿くふ人を恨みけり”。

柿好きの正岡子規にとって、
病気の苦しさもさることながら、
大好物の柿を口にできないことが、
さぞ悔しかったようで、
若くして死を迎えるまでの
数年間に詠まれた柿の句には、
その心情が見事なまでに
描かれています。