新選組副長「土方歳三」の、厳格なまでのストイックな生き様。

それぞれの“思い”を胸に、刹那的に「幕末」を駆け抜けた若者たち。

今から約170年前、
日本は近代化に向け
大きな転換期を迎えました。

徳川幕府末期の「幕末」です。

「幕末」の期間は
明確に定義されていませんが、
一般的には、
ペリー率いる黒船が
浦賀沖に来航した1853年 (嘉永6年)を
「幕末」の始まりとし、
新政府軍と旧幕府軍が戦った
1868年(慶応4年)の“戊辰戦争”を
「幕末」の終わりとする
考え方が多いようです。

それ以外にも、
徳川最後の将軍・慶喜が
“大政奉還”を行なった
1867年(慶応3年)、
もしくは翌1868年(慶応4年)の
“江戸開城”を
幕末の終焉と見なすこともあります。

いずれにせよ、
わずか15年ほどの間に、
ちょんまげに帯刀、
着物が中心だった日本が、
海外の列強国と対峙する近代国家へと
大きく変わるきっかけとなりました。

時として起こる大きな時代のうねりは
かつて経験したこともない
新しい時代へと
導いているかのようです。

さて、「幕末」ですが、
30代40代の若者が、
それぞれが思い描く
“志”や“しがらみ”に
突き動かされるように戦い、
そして夢半ばに散っていきました。

そんな動乱の「幕末」を駆け抜けた
多くの若者の中のひとりに
「土方歳三」がいます。

「土方歳三」は、
1835年(天保6年)
武蔵国多摩郡石田村(現東京日野市)
に生まれた10人兄弟の末っ子。

14歳から24歳まで
東京上野の呉服商で奉公し、その後、
実家秘伝の“石田散薬”の行商で
生計を立てるかたわら、
行商で訪れた地の剣術道場で
修行を重ねました。

姉の嫁ぎ先の天然理心流の道場で、
後の新選組局長となる
近藤勇と出会います。

そして1863年(文久3年)3月、
近藤勇らとともに
徳川14代将軍家茂警護の
壬生浪士組に応募し、京都へ。

同年8月、壬生浪士隊は
“新選組”として正式に発足。

9月には
局内で幅を利かせていた新見錦切腹、
芹沢鴨の暗殺を経て、
10月に近藤勇局長の新体制が築かれ、
副長「土方歳三」が誕生しました。

この一連の流れは、
歴史的に厚みのある史実で、
ドラマや映画では
かなりの時間をとって描かれますが、
実際には約半年の出来事です。

その後、京都の町を舞台に、
土佐の坂本龍馬や
長州藩の攘夷派志士との
戦いを繰り広げ、
町民からも、
“壬生浪”と恐れられる存在に。

攘夷派志士の鎮圧を行った
“池田屋事件”や“禁門の変”
の働きで知名度を高める一方、
規律を守らせる鉄の掟ともいえる
“局中法度”を定めたのは、
他ならぬ局内の実権を握っていた
副長「土方歳三」でした。

敵味方が入り混じり、
混迷を極めた覇権争いは、
1867年(慶応3年)に
徳川最後の将軍・慶喜が
大政奉還を行った後、
旧幕府軍は戊辰戦争の
鳥羽・伏見の戦いで敗北。

“新選組”から離反する隊士も多く、
事実上“新選組”は解散の憂き目に。

「土方歳三」をはじめとする残党は、
旧幕府軍の榎本武揚らとともに行動し
函館・五稜郭に入城。

1869年(明治2年)、
「土方歳三」は、
新政府軍の軍隊に孤軍の戦いを挑み、
34歳の生涯を閉じました。

最初に故郷を出てから
わずか5年の歳月。

今年の5月31日(新暦)、
「土方歳三」188歳の誕生日が、
また巡ってきます。