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「当時は“勝麟太郎”や“勝安房”と呼ばれることが多かった勝海舟。
今から201年前の
旧暦1823年(文政6年)の1月30日、
江戸本所の小普請の旗本の家に
勝海舟は生まれました。
勝海舟という名前は
広く知れわたっていますが、
“海舟”は彼の号で、
本名は“義邦”。
昔は
実名で呼ぶのを敬って避けると
いう風習があったため、
幼名の“麟太郎”を
通称として使っていました。
また、幕府要職に就いた際には
“安房守(あわのかみ)”を
名乗ったことから、略して
“勝安房(かつあわ)”
とも呼ばれました。
明治維新後は、
幕府官位の“安房”を使うことを避け
同音である“安芳”を名乗りました。
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時は江戸末期。
身分に縛られた社会で
出世などほとんど望めない時代。
しかし、1853年(嘉永6年)、
ペリーが黒船で来航し、
開国を迫る出来事が
彼の人生を
大きく変えることになりました。
アメリカの開国要求に対して、
幕府は幕臣をはじめ、
諸大名から町人にまで
広く海防に関する意見書を公募。
麟太郎が上申した
“西洋式兵学校の設立と
幕府による
正確な翻訳書刊行の必要性”
を説いた海防意見書が、
当時の目付兼海防掛だった
大久保一翁(忠寛)の
知遇を得ることにつながり、
幕府の海軍機関へと入所。
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1860年(万延元年)には、
アメリカへと派遣された
使節団を護衛する
咸臨丸(かんりんまる)の
艦長として随行。
日本とはまったく異なる
近代的な政治や経済、
文化などを目の当たりにして、
その見識を深めました。
帰国後すぐに近代海軍の強化に尽力し
神戸に海軍操練所を設立。
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このとき、麟太郎は、
菊正宗の分家にあたる
嘉納治五郎の父・治郎作と親交を深め
勝海舟は神戸・御影の嘉納宅にも
たびたび足を運びました。
また、同じ頃、
坂本龍馬との出会いもありました。
当時、
幕府軍艦奉行に就いていた
麟太郎邸を訪れた勤王攘夷派の龍馬の
本当の目的は、麟太郎の暗殺。
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しかし麟太郎の
“外国との交易で
西欧に負けない国力を付け、
防衛力を強化する”
という考えに感化された龍馬は、
麟太郎の弟子に。
お互い命のやり取りをする
敵対組織にありながら、
師弟関係を築ける大らかさが、
日本の近代化を
より急ぎ足で進めたのは、
興味深い偶然ともいえるでしょう。
麟太郎の功績は、
数多くあります。
そのひとつが、
幕府による「第二次長州征伐」を
長州藩との根回しによって
停戦に導いたこと。
また、1867年(慶応3年)の
大政奉還において、
新政府軍との戦いを主張する
旧幕府軍の幕臣たちを説き伏せ、
戦うことなく江戸城を明け渡した
「無血開城」も、
江戸の町を戦禍から守った
大きな功績といえます。
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幕末を語る上で、
どうしても
豪放磊落な坂本龍馬に
スポットが当たりがちです。
しかし、龍馬の功績に
勝るとも劣らない勝海舟の偉業も、
もっと
評価されて良いようにも思います。
とくに幕府の要職に就きながらの
組織を超越した活躍ぶりは、
後世に多くの学びを残しています。