もうすぐ「土用の丑の日」ですが、この時期が“旬”の「鮎」も絶品です。

脂ののった「鮎」の塩焼きを堪能できる、漁場近くのグルメスポットへ。

あとひと月もすれば
「土用の丑の日」で、
スーパーの店頭には
美味しそうなウナギが並びます。

昭和の昔、
いまのように大型スーパーなど
ほとんどない時代の買い物は、
主に公設市場や商店街。

当時、ウナギを販売していたのは、
川魚屋と呼ばれる淡水魚を
取り扱うお店が多かったようです。

「土用の丑の日」ともなると、
焼いたウナギの芳ばしい香りに
誘われるように店頭はウナギを
買い求めるお客さんで賑わいました。

そして、ちょうどこの時期に
“旬”を迎える「鮎」もウナギと
同じように売られていたのが、
古き良き昭和の時代の
当たり前の光景です。

現在は、大型スーパーが増えた影響で
鮮魚店や川魚屋など、
規模の小さな小売店の数は
大幅に減少。

日々の買い物のほとんどは
近所のスーパーというのが一般的。

そして、スーパーにとって、
「土用の丑の日」のウナギは
夏の歳時を代表する人気商品です。

一方、同じ時期に“旬”を迎える
「鮎」はというと、
あまり意識していないせいか、
シーズン中に何度か店頭で
見かける程度。

流通の都合なのか、
“旬”の味を口にする機会は
かなり稀なことのようです。

そういう意味で、ネット通販で
冷凍された天然鮎を購入するのが、
手っ取り早く“旬”の「鮎」を食べる
方法のひとつなのかも知れません。

新鮮さにこだわるのなら
現地へ出かけるのもおすすめの方法。

ほぼ全都道府県に「鮎」の漁場があり
早い所だと5月下旬、
遅くとも6月中旬には
鮎漁が解禁されています。

ただ、鮎釣りをするには
有料の遊漁券が必要で、
海の魚とくらべると
川の魚は敏感なので、
鮎釣り経験者でないと
釣果は期待薄。

ここは釣りを諦めて、
漁場周辺の「鮎」を
美味しくいただけるスポットを
探してみるのが賢明です。

まずは獲れたての「鮎」を
竹串に刺して炭の遠火で焼いた
ファストフード感覚の
立ち食いスタイルや
2000円前後で食べ放題という
嬉しいスポットなど、
獲れたてを食べられるところなど、
意外と多いようです。

また、「鮎」の漁場は
山間の渓流や川辺が多く、
近くにキャンプ場やバーベキューが
楽しめる施設が併設されていたり、
お土産用に獲れたての
新鮮な「鮎」の直売店があることも
多いので、夏のレジャーとして
楽しむのも一興です。

菊正宗では種類の異なる
180mL飲みきりのネオカップと、
丈夫な帆布生地でできた
オリジナル巾着「甚吉袋」を
セットにした
「キャンプへGO!セット」を販売中。

塩を振って香ばしく焼いた「鮎」と
キリッと冷やした日本酒の相性は抜群
“旬”の美味しさを
十分に堪能できます。

「鮎」の塩焼きは、下処理をせず、
軽く流水で表面を洗って、
ハラワタをつけたまま
竹串に刺して焼きます。

骨は細かく柔らかいので、
骨ごと丸かじりで食べる
食通もいるとのこと。

骨を取り除いて美味しく食べるコツは
尾びれをしっかりとひねって
取るのがポイントです。

その後、頭を引っこ抜けば
骨も一緒に取り除けます。

よく見かける、骨を外すために
魚の胴を箸で何度も押す方法は、
小骨を身に残し、
下手をすると背骨を折ってしまうので
あまりおすすめできません。

夏はもう目の前に来ています。

“旬”の「鮎」、
いまがちょうど食べ頃です。

6月27日は「ちらし寿司の日」。なぜこの日に制定されたのでしょうか?

混ぜ込む具材によって味が異なる「ちらし寿司」。全国食べ歩きもおすすめです。

6月27日は「ちらし寿司の日」。

「ちらし寿司」は文字通り、
酢飯の中もしくは酢飯の上に、
さまざまな具材を
“散らし”た寿司のことをいいます。

にぎり寿司発祥の
江戸(東京)で、
明治以降に庶民へと広まった
「江戸前ちらし寿司」は
白い酢飯の上に、
にぎり寿司に使う
寿司ネタを並べたもので、
もともとは江戸時代後期、
残った寿司ネタを使った
寿司職人の賄い飯が発端とのこと。

しかし、
関東周辺以外の地域で
「ちらし寿司」というと、
酢飯の中に、干し椎茸や干瓢を
甘辛く煮しめたものをはじめ、
野菜系の具を中心に混ぜ込み、
錦糸卵や海苔で彩った家庭料理で、
“五目ちらし”“ばら寿司”
などとも呼ばれます。

全国的に、
その土地ごとに混ぜ込んだり、
上に乗せる具材が微妙に異なるなど、
馴染んだ味はバラエティ豊かです。

さて、
日本記念日協会によって
6月27日が「ちらし寿司の日」として
登録されたのは、
備前岡山藩主であった
池田光政の命日に由来します。

東京の「江戸前ちらし寿司」は
地域限定で広まった
郷土色豊かな「ちらし寿司」なので
関連した日が選ばれないとしても、
それ以外の地域の「ちらし寿司」は、
混ぜ込む具材は多少異なりますが、
よく似た料理。

なぜ岡山なのか気になるところです。

その理由の背景にあるのは…
備前岡山藩主の池田光政は、
汁物以外に副食を一品に制限した
“一汁一菜令”を布告し、
領民に対して質素倹約を奨励。

そうした中、
祭りなどの特別の日には、
たくさんの具を混ぜ込んだ
“ばら寿司”を一菜としたとか、
寿司ネタを寿司桶の底に敷き詰め、
それを酢飯で覆い隠すことで
粗食を装い、
食事直前に寿司桶をひっくり返して
祭りの食卓を飾ったとかの逸話が
残されています。

これが領民の知恵だったのか、
領主が見て見ぬ振りをしたのかまでは
記録は残っていませんが、
岡山の“ばら寿司”誕生に
大きく関わったことが
記念日制定の大きな理由のようです。

さて岡山の「ちらし寿司」ですが、
具材が大きく、
彩る品目数が多いという
特徴があります。

岡山県下の地域や季節によって
具材は変わりますが、
椎茸や干瓢を煮しめたものを
酢飯に混ぜ込み、
その上に錦糸卵を敷き詰めます。

さらにその上に、茹でニンジン、
酢蓮根、さやえんどう、ちくわ、
かまぼこ、田麩、高野豆腐、
殻付のエビ、焼穴子、茹でたタコ、
煮付けたイカや
藻貝(サルボウガイ)、
アゲマキガイ、
サワラやママカリの酢漬けなど、
大きめの具材を切って敷き詰める、
何とも豪華な
「ちらし寿司」のようです。

さらにルーツを手繰ってみると、
同じ岡山県の
備前長船町福岡に伝わる
“どどめせ”という料理に
たどり着きます。

鎌倉時代発祥の料理で、
炊込みご飯を酸っぱく発酵した
“どぶろく”に入れてしまい、
それが美味しかったため
“どぶろく飯”という呼び名で広まり、
それが訛って
“どどめせ”になったとか。

具材の数だけ下処理が多い
手間のかかる贅沢な料理
「ちらし寿司」。

ぜひ、
全国各地を食べ歩きたいものです。

梅雨の憂鬱な気持ちを晴らしてくれる「紫陽花」は、そろそろ見頃です。

長崎では「紫陽花」のことを、“オタクサ”と呼ぶ習慣が残っています。

雨がシトシトと降る
梅雨時の憂鬱な気持ちを
拭い去ってくれる
「紫陽花(あじさい)」を
街角で見かける季節です。

「紫陽花」の花は、
咲き始めから成長するにつれて、
どんどん色を変化させます。

咲き始めの淡い緑黄色から
やがて薄れて白くなり、
青色もしくはピンク色へと変化。

最終的には
濃い紅紫や青紫へと咲き進みます。

また、花の色は
植えられている土壌によって
変わるとされ、
“酸性なら青”
“アルカリ性ならピンク”に。

さらに、
使われる肥料によっても
花の色は変わるとのこと。

もともとの「紫陽花」は、
日本原産の「ガクアジサイ」で、
日本最古の和歌集「万葉集」に
“味狭藍”“安治佐為”、
平安時代の「和名類聚抄」には
“阿豆佐為”
の字を当てたものが登場しますが、
しばらく歴史の舞台からは遠ざかり、
観賞用として
親しまれるようになったのは
第二次世界大戦以降になってから
のこと。

医療の発達していない昔、
季節の変わり目に亡くなる人が多い
梅雨の時期に咲き誇り、
寺院の境内や墓地に
植えられることも多いため、
死者への手向けの花としての
印象が強く、
4枚の花びらが“四=死”を
連想させる不吉な花として
忌み嫌われたようです。

また、「紫陽花」は別名が多く、
花の色の変化から
「七変化」「八仙花」、
花びらの数から「四片(よひら)」、
花が集まった丸い形から「手鞠花」
などと呼ばれます。

そして興味深いのが
「オタクサ」という呼び名です。

この別名については、
江戸時代末期、
オランダ陸軍軍医の
ドイツ人医師シーボルトが
長崎に渡来した時代にまで遡ります。

彼は身の回りの世話をしてくれた
“楠本滝”こと“お滝さん”に
限りない愛を注ぎますが、
“シーボルト事件”により
国外追放に。

日本に
“お滝さん”と二人の間にできた子供
“楠本いね”を残し、
失意のままにオランダへと帰国。

その際に
好きだった日本の「紫陽花」を
持ち帰り、
植物学者でもあった彼は
「紫陽花」の品種改良を行いました。

彼の著書
「日本植物誌
(フローラ・ヤポニカ)」に
「ヒドランゲア・オタクサ」
という学名で「紫陽花」を紹介。

日本語の発音ができず
“お滝さん”を“おたくさ”と
呼んでいたことから、
愛する人の名前を
新しい品種につけたもの。

これをきっかけに
「紫陽花」はヨーロッパへと広がり、
大正時代に逆輸入されたのが、
「ホンアジサイ(手鞠咲き)」や
「ハイドランジア」などの
西洋アジサイの品種です。

とくに現在、
日本国内で多く見られるのは
「ハイドランジア」という品種。

ただ、アジサイの学名は
シーボルトが命名する以前に
「ハイドランジア・マクロフィラ」
という名前で発表されていたので
“オタクサ”の名前は
認められませんでした。

しかし、今も長崎では、
“おたくさ”という呼び名は
健在です。

さだまさしの「紫陽花の詩」という
長崎の街を叙景豊かに歌い上げる曲に
“おたくさ”
“オランダさんの置き忘れ”
という言葉が登場。

シーボルトが日本に残した
“お滝さん”と娘の“いね”への、
この上ない愛情を
感じさせてくれます。

愛らしさでお馴染みの野鳥、ツバメとスズメ。その生態は大きく異なります。

ツバメが日本に戻ってくるのは、毎年春先の同じ時期で、同じ個体の場合が多い。

外気に面した
マンションの廊下や
民家の軒下などの
ツバメの巣から聞こえる、
ヒナの“チチチチチ…”
という鳴き声に、
春から夏への変化を感じる季節です。

ところが、
七十二候の第十三候
「玄鳥至(つばめきたる)
/二十四節気「清明」初候」は
4月4日〜8日頃。

毎年ほぼ同じ時期に、
ツバメは台湾やマレーシア、
フィリピンなどの
東南アジアを中心に、
遠くはオーストラリアから
数千kmもの距離を飛んで
日本へと渡って来ます。

日照時間の長さを感知して
飛び立つ時期を知り、
毎年ほぼ同じ時期に飛び立つので、
長く続く海上では
太陽の位置によって
目的地の方向を把握。

日本の陸地が見えてくると
見覚えのある
山などの地形を確認しながら、
元の巣にたどり着くと
いわれています。

オスが最初に到着し、
元の巣を2日ほどで補修。

古巣がなければ
近くの空いた巣を探し、
空いた巣がなければ
元の巣に近い場所へ泥を運んで
乾かしながら時間をかけて
営巣することになり、
10日ほどかかるようです。

ツバメの巣は、
泥と枯れ草に唾液を混ぜたもので、
頑丈な土壁さながらの
強度があります。

日本に戻って来たツバメは
4月から6月にかけて卵を産み、
メスが卵を温める抱卵期間は
2週間ほど。

孵ったヒナは
親鳥が運んでくる餌を食べて
3週間ほどで親と同じ大きさに成長し、
飛ぶ練習を始めます。

春先に来たツバメは、
巣作りや繁殖、抱卵に忙しく、
それほど目にする機会はありません。

しかし、ヒナが孵って以降、
ヒナ鳥の喧しい鳴き声を耳にし、
餌を捕るために飛ぶ親鳥の姿を
頻繁に見かけることもあり、
ツバメというと“夏鳥”という
強い印象につながっているのかも
知れません。

ツバメは
スズメ目ツバメ科に分類されますが、
ツバメとスズメとでは、
生態は大きく異なります。

まず、
ツバメは渡り鳥、
スズメは人の生活圏で共存する鳥
という違いです。

また、
ツバメの主食はハエや蚊、
アブ、羽アリなどの昆虫類で、
肉食中心の食生活を送ります。

スズメは米などの穀類や種子、
イモムシなどの昆虫、花の蜜、
パンや菓子屑、時には生ゴミなど
雑食です。

この食の生態により、
米の生育を阻害する
害虫を食べるツバメは
益鳥として農家に親しまれ、
逆に米を啄むスズメは
害鳥として疎んじられてきました。

飛び方も異なり、
ツバメは羽ばたきよりも
直線的に飛ぶ滑翔
(グライディング)が中心で、
歩くことはほとんど見かけません。

一方、スズメは、
羽ばたきながら直線的に飛行し、
地上でも両足でホッピングしながら
素早く移動する姿をよく見かけます。

これから夏に向け、
ツバメが大空を飛び回る姿を
頻繁に見かける時期です。

七十二候の第四十五候
「玄鳥去(つばめさる)
/二十四節気「白露」末候」の
9月17日〜21日頃、
暖かい南の地域へと
ツバメが戻り始めるまで、
その愛らしい姿に
しばらく癒やされたいものです。

新選組副長「土方歳三」の、厳格なまでのストイックな生き様。

それぞれの“思い”を胸に、刹那的に「幕末」を駆け抜けた若者たち。

今から約170年前、
日本は近代化に向け
大きな転換期を迎えました。

徳川幕府末期の「幕末」です。

「幕末」の期間は
明確に定義されていませんが、
一般的には、
ペリー率いる黒船が
浦賀沖に来航した1853年 (嘉永6年)を
「幕末」の始まりとし、
新政府軍と旧幕府軍が戦った
1868年(慶応4年)の“戊辰戦争”を
「幕末」の終わりとする
考え方が多いようです。

それ以外にも、
徳川最後の将軍・慶喜が
“大政奉還”を行なった
1867年(慶応3年)、
もしくは翌1868年(慶応4年)の
“江戸開城”を
幕末の終焉と見なすこともあります。

いずれにせよ、
わずか15年ほどの間に、
ちょんまげに帯刀、
着物が中心だった日本が、
海外の列強国と対峙する近代国家へと
大きく変わるきっかけとなりました。

時として起こる大きな時代のうねりは
かつて経験したこともない
新しい時代へと
導いているかのようです。

さて、「幕末」ですが、
30代40代の若者が、
それぞれが思い描く
“志”や“しがらみ”に
突き動かされるように戦い、
そして夢半ばに散っていきました。

そんな動乱の「幕末」を駆け抜けた
多くの若者の中のひとりに
「土方歳三」がいます。

「土方歳三」は、
1835年(天保6年)
武蔵国多摩郡石田村(現東京日野市)
に生まれた10人兄弟の末っ子。

14歳から24歳まで
東京上野の呉服商で奉公し、その後、
実家秘伝の“石田散薬”の行商で
生計を立てるかたわら、
行商で訪れた地の剣術道場で
修行を重ねました。

姉の嫁ぎ先の天然理心流の道場で、
後の新選組局長となる
近藤勇と出会います。

そして1863年(文久3年)3月、
近藤勇らとともに
徳川14代将軍家茂警護の
壬生浪士組に応募し、京都へ。

同年8月、壬生浪士隊は
“新選組”として正式に発足。

9月には
局内で幅を利かせていた新見錦切腹、
芹沢鴨の暗殺を経て、
10月に近藤勇局長の新体制が築かれ、
副長「土方歳三」が誕生しました。

この一連の流れは、
歴史的に厚みのある史実で、
ドラマや映画では
かなりの時間をとって描かれますが、
実際には約半年の出来事です。

その後、京都の町を舞台に、
土佐の坂本龍馬や
長州藩の攘夷派志士との
戦いを繰り広げ、
町民からも、
“壬生浪”と恐れられる存在に。

攘夷派志士の鎮圧を行った
“池田屋事件”や“禁門の変”
の働きで知名度を高める一方、
規律を守らせる鉄の掟ともいえる
“局中法度”を定めたのは、
他ならぬ局内の実権を握っていた
副長「土方歳三」でした。

敵味方が入り混じり、
混迷を極めた覇権争いは、
1867年(慶応3年)に
徳川最後の将軍・慶喜が
大政奉還を行った後、
旧幕府軍は戊辰戦争の
鳥羽・伏見の戦いで敗北。

“新選組”から離反する隊士も多く、
事実上“新選組”は解散の憂き目に。

「土方歳三」をはじめとする残党は、
旧幕府軍の榎本武揚らとともに行動し
函館・五稜郭に入城。

1869年(明治2年)、
「土方歳三」は、
新政府軍の軍隊に孤軍の戦いを挑み、
34歳の生涯を閉じました。

最初に故郷を出てから
わずか5年の歳月。

今年の5月31日(新暦)、
「土方歳三」188歳の誕生日が、
また巡ってきます。